向こう側に、見ている世界があり、こちら側には、見ている自分がある。その自分は、これら二つは、別々だと思っている。

 

 見る対象から色々な印象を受け取って、そこからまたイメージを形成したり、解釈したり、ということをやっているわけだけれど、そういう精神活動をおこなっている自分を、周囲に見えている世界と切り離され独立性をもった存在と捉えている。

 

 これをダスカロスという人は、「分離の世界」と呼んだ。

 具体的にいうと、物質界、サイキカル界、ノエティック界となる・・・

 

 仏教で、三界(さんがい)と称するものと同じだろう。ここで輪廻転生も起きる、変転絶え間なき境涯(きょうがい)の。

 

 見る行為において、見られる世界と見る者がいる。

 そして、自分は対象と区別された見る者だと信じている。外の世界にたいする内の世界。この内の世界に属するのが自分・・・…と、考えている。

 

 しかし、この分離の世界を創っている自分とは、なにか?

 それは「本当の自分」ではない、とダスカロスはいう。

 

 「本当の自分」に出会うには、高い次元の世界に意識を合わせる必要がある。

 

 それは少なくても、五感をつうじて入ってくる印象や外から流れてくる情報から形成されたイメージや思考、感情を超えたものだろう。

 

 通常わたしたちの見ている世界は、自分の色眼鏡をつうじて見ている世界にすぎない、ということだけは間違いなく、承知しておくべき大事な事柄と思う。

 

 

 最近さまざまなニュースや情報を受け取る一方で、「実際のところはどうなのか」とか、「何が真実で、何がそうでないか、わからなくなっている」といった声を聞くことが増えてきたと感じている。

 

 これは何でもかんでも鵜呑みにすることを考えれば、かならずしも悪くはないとは思うが、もし信じるに値する情報など何ひとつないと感じ、そのことで不安感や無力感をつのらせ、絶望的な気分になるとしたら、どうだろう。

 かえって情報など知らないほうが健康にも精神衛生にも良いともいえそうである。

 

 だいたい見ている世界が主観的な世界でしかないとしたら、どうやって心を一つに合せて協力してゆくことができよう。しかも、あたえられる情報にプロパガンダや虚偽がふんだんに(ちりば)められている疑いの濃厚なコロナ関連情報に至っては、いったいどんな積極的な意味があるというのか。

 

 確信も持てぬまま、ワクチン接種をやらざるをえない状況に追いこまれるとしたら、無茶苦茶な話ではないか。これ以上、人間を馬鹿にし、愛が感じられず、むしろ人類への憎しみと魂への冒涜を隠し持ったような政策があるだろうか。でも、そう考えるのは、自分だからで、他の人々が自分と同じ考え方をするとは思えない。どんなにおかしなことでも、正しい事実はこうですよ、と情報を提供されたとしても、今信じていること、今いる世界から一歩も外に出たくない、なぜなら居心地がいいから、という人だっているにちがいないのだ。そういう人は、きっとこう言うことだろう。

 いや、これは保険といっしょですよ。ええ、たしかに。蓋然性(がいぜんせい)(~になるかもしれない)にたいし、保険をかけておけば安心でしょ。というわけだ。うん?でも、待てよ。それだけか。というと、ワクチンの有効性も安全性も保証はなし、というのが、先日ここでも紹介させていただいた欧米の医師らの証言だった。これが本当なら、やはり無茶苦茶な世界が、いつのまにかわたしたちを取り巻いていることになるのだが、この()に及んでも、「それもどうだか。すべてはわかんないよね。本当のことなんて、わかるわけないよ」と、言ってしまうところまで、判断停止し、思考停止させられているのかもしれない。というよりも、降りてくる「直観」の(やく)(さつ)であり、抹殺であり、封印であるというべきだろう。もっといえば、霊界との通路を遮断されることで、そちらから来る原像を受け取れない。霊的直観を得ることが妨害されている。アーリマンの暗躍があると思う。

 

 

 

 

 だが、すべてが嘘と(わな)に満ちているような今の世界にあって、「本当の世界」は存在する、とダスカロスが語っていることを思い出す。もちろん、時の移ろいに関係しない普遍的真理としての覚者のこの言葉は、救いではないだろうか。

 

 人間は、睡眠中は、物質の体とエーテル体を残して、自我とアストラル体が物質界の次元を離れる。そして人が死ぬと、三つの体(肉体・サイキカル体、ノエティック体 - 後ろの二つはダスカロスの用語)の生命を保つエーテル・ダブルといわれるエネルギー・フィールドが肉体とともにしばらくとどまる。その40日間のあいだに悪霊が遺体に入ってしまう危険があるため、このエーテル・ダブルの分離と消滅を促進するために墓にローソクの火をともしておくことが助けになると、ダスカロスは言っている。

 

 たいていの人において、死後に移行する先の世界まで、生前と同じ想いや信じていることを持ち越す結果、相変わらずその人に特有の殻に閉じこもったままである。その結果、それらに応じた主観の世界を見つづけることとなる。たとえ物理次元以上のサイキカル界に行っても、そこのあるがままの様相には接し得ない。あの世には太陽や山や川や木や海といった地球上に存在するものはすべてあるものの、下位の次元においては人間が生前につくったものを含むということだ。もちろん、同じ風景でももっと光り輝いている(高位の次元では、太陽光を反射する月のようではなく、原子自体が発光しているといわれる)、その創造にあたって大天使が関与している世界は、あるのだけれど、それが見えない。そういう意味では、こちらの世界で、わたしたちが、めいめいの主観の殻にこもったまま、自分ではリアルな世界を見ているつもりになっていながら、じつは全然そうじゃなくて、外に在る世界ではなく、自分の見たい世界をただ投影しているだけ、という状況に酷似している、というか、まったくそこは変わらぬ事情である、ともいえそうである。

 

 最近では、アメリカの大統領がホワイトハウスで執政しているかに見せかけながら、じつは全然他の場所にいて、国民に報道する場面では、それ専用のスタジオで改めてそれらしき場面を演じさせているとも聞くし、極めつけは、本人ではない影武者のごとき存在が映っているにすぎないともいわれている。まるで都市伝説みたいだ。エンタテイメントとして、笑って済まされる話でもない。でも、向こう側の情報操作の意図とは関係なく、そもそもカルマ(業)の波に厚く覆われて真実が見えなくなっているわたしたちの見ている世界が、それぞれの主観による(ゆが)んだ世界であることに気づかせてくれる役割も果たしているかもしれないとも思う。

 

 とにかく本物と(にせ)(もの)とを区別できる力を養うしかない。だます相手が悪いと、相手のせいにしてはならない。だまされる自分にこそ原因があるのだから。ここを間違えると、人生を誤る。いつも力の担い手は自己。力点は自分にある。というのも、われわれ人間には、二つのレベルがあって、

 

〇永遠のパーソナリティーとか、永遠の存在と呼ばれる感覚的世界を超えた高次の次元にいる自分
〇現在のパーソナリティーとか、一時的な存在と呼ばれる肉体次元にいる自分

 

 前者は、わたしたちの神聖なる本質であり、広大無辺かつ始まりも終りもなく永遠に存在する霊をさしている。 「自己認識-魂」ともいう。 後者は、永遠の存在の投影として、「時間 - 場所 - 空間」の領域に制約され、始めと終わりがある一時的な現象をさす。 

 当然、この両者をつなぐ架け橋は、完全に開通していない状態にある。それは本来の自己の人生の目的に沿ってデザインされた魂の計画、愛のシナリオ(と、自分では呼んでいる。一人一人の神聖なる自己の描くシナリオは、たぶん宇宙の壮大にして神聖なる計画に組みこまれている。各自がこれに忠実になり、その実現に意識的に努めて行く時、お互いにぶつかり合ったり、奪い合ったりすることは決してなく、宇宙全体の平和と進歩のために 互いに協力し、調和的に連携して、働くことが可能となると思う。結果として、個人の幸福、道の完成と人類の幸福、人類全体の悟りは、一致するはずだ。ただ、せっかく計画してきたことが、肉体に入ると、忘れられてしまうことが多いのが残念だ。そのために人生の貴重な時間が浪費されるようであれば、もったいないと思うけれど、考えてみるとわざわざ自分探しに費やす時間は無駄であろうはずもない。

 いずれにしても、生前のことは過去生までも含めて全部思い出せない仕組みとなっている。仮にもし、過去生からの性癖に由来する悪しき行動パターンや弱点などの記憶をよみがえらせることになると、その影響に引っ張られることになりかねない。そうなってはいけないので、忘れさせるようになっているとダスカロスは述べている。けれど、もう過去生を知ってもとらわれない、だいじょうぶとなった時には仕切り板が取れるということだ。悟った瞬間にダァーッと、幾多の過去生の自分の考えたこと、為したことが、映画のコマ送りのように一つひとつ記憶によみがえってくるんだろうか。これも潜在意識の可能性の現れ方の一つであるけれども、話を魂のブループリント(青写真)ということにもどそう。

 何かの苦難や苦悩というきっかけ、機縁に触れることにより、自己の内面からの気づきを受け取り、自分自身の魂が肉体の生まれる以前に決意し、決めてきた計画なり目的なりを想起する、ということが、少しずつ少しずつおこなわれる。そうすることによって、先に挙げた二つの自己つまり永遠のパーソナリティと現在のパーソナリティの軌道のズレが修正されてゆく。

 

 この肉体にいて、しかも個我の意識をもちながら、地上での経験をして、魂が新たな学びを深めて、再びあちらの本当の世界に帰ってゆく。それにより、アカシックレコードに新たに肉体をまとい個性を備えた個人魂の豊かな経験にもとづく叡智が付け加わり、宇宙全体はさらに豊かになり滋味を増してゆくだろう。

 わたしたちの現在のパーソナリティが、永遠のパーソナリティと一つになれば、もはや生まれもせず、死にもしない、成功と不成功、幸不幸もない、二元対立を超越した境涯にたどり着けるのだ。

 

 最後に、ダスカロスのもとに集った真理探究の徒たちにした、ありし日の講義の一部を以下に紹介して、この記事を終りたい。

 

 地獄や極楽は、相対的な観念だ。ある人の地獄は、他の人の極楽かもしれない。サイキックな次元の地獄にいる誰かを助けたいと思ったら、今いるのとは違う状況を見せてあげなくてはならない。もし地上で愚痴っぽい人だったら、身体を抜け出しても同じ状況を選ぶ。彼を助けたいと思ったら、すぐ移れるもっと良い状況を見せてあげなければならない。もし彼が、あなたの提案に関心を示さないようだったら、現在いるところにそっとしておいてあげなさい。ひどい地獄であっても、彼にとっては極楽なのだ。

 一つ例をあげてみよう。生きている間は賭けごとに熱中し、喧嘩も好きな人間だった人を助けようとしたことがあった。彼は四十五年前に肺結核で死んだが、物質界にいた頃と同じ生活をサイキック界(他のダスカロスの著書では、サイキカル体に対応したサイキカル界と訳されるが、『メッセンジャー』の訳者は、このように訳していると思われる-筆者註)で続けている。他の者たちと、地球で知っていた同じ環境をつくり出している。汚い窓、汚い服、テーブル、喧嘩など、昔知っていたコーヒーハウスのような環境なんだ。もっと良いところをつくる想像力にも欠けていた。ある時、私は彼に言った。<どこか、他のところに行ってみよう>と。

 彼をこの状況から連れ出して、私の大好きなベートーヴェンのシンフォニーの波動をつくり出した。とくに喜びの波動をさ。<チャーリー、見てごらん>と彼に、色彩、水、花、すべてのそろった美しい森を見せた。私は音楽と風景を調和させ、私には極楽と思える世界をつくり上げた。彼はしばらく私を見つめていたが、<あんた、疲れないか。帰って、友達とポーカーでもやろうよ。ここで、どのくらい君のブリキの太鼓を聞かせるつもりなんだね>。

 これに、何と言ってあげられるだろうか。彼の住む極楽は私にとってはかけがえのない地獄だった。どうやって、この男に極楽と地獄の違いを説明できるだろう。

 

 もう一つ、別の例がある。気難しい女性が、生涯を通して、近所の人たちを非難したり、噂したり、悪態をついたりして過ごしていた。彼女は死ぬと、同じ生活を続けたわけだが、彼女の性格はもっと激しくなった。こちらの世界に残された本物の人間ではなく、創造して連れて行ったエレメンタルたちを相手に喧嘩を続けたのだ。マリア、エレニやエフタービのエレメンタルたちとね。私たちは、彼女が地獄に住んでいることや、もっとはっきりと物事が見えるようになるためには、これらのエレメンタルを消滅させる必要があるということを知らせようとしたが、無駄だった。自分の状況に疲れ果てるまでは、人は、変えて欲しいと自ら言い出さないだろう。いつか透明なヘルパー(訳注:サイキックとノエティックな次元に生きる、私たちの肉眼では見えない師たち。また、物質界に住み、幽体離脱をしてこの次元や他の次元において人間の手助けをする師たちも含まれる)になる人たちは、こうした問題に直面することになる。本人が変化を望まない限り、助けてあげることは不可能なのだ。どの人間も、少しずつ成長する。このような状況で私たちができることは、良性のエレメンタルをつくり、それが働き出すようにその人間のオーラにつけてあげることだ。本人が変わる準備ができると、エレメンタルはすぐに手伝ってくれる」

 

(『メッセンジャー』第七章 死と輪廻p.144-146より) 

 

 結局、みんなそれぞれのペースで進化しているわけだ。余計なお節介をやくよりも、自分の人生に責任をもつことが先だ。かといって、他人のことはどうでもよい、というのではない。エゴイズムこそは、この惑星のいちばん克服しなくてはいけない課題であって、そのために今コロナが世界共通の問題として起きているともいえるのだから。

 大事なのは、心がけなのだ。結果を求めずに、まことを尽くす。それのみ、なのではないか。

 

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