2011年は日本にとって運命の年となった。1991年バブル崩壊から十年後、2001年NY同時多発テロ(真相は「自作自演テロ」だと伝える情報がネットに現れ、「マスコミの情報は鵜呑みにはできない。情報操作の可能性を疑う必要がある」という態度を学習して、メディア・リテラシーを高める経験でもあった)が起きる。そして建築家リチャード・ゲイジがいわゆる陰謀論ではない立場で専門的に調べ物証を根拠にして解明しようとしたイタリア映画『ZERO』が日本に上陸し、本邦初公開で上映された2010,9,11にその作品を観に行くことになった。

その翌年の2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原発のメルトダウンは、3.11と呼ばれることとなり、なぜか9.11が意識された。大震災の起きた時刻は14時46分で、9.11の8時46分(ニューヨーク時刻、日本時刻では21時46分)と「分」のほうは、きっかり同時刻である。(ちなみに阪神淡路大震災が5時46分) 1991年(31歳)→2001年(41歳)→2011年(51歳)と、十年ごとに重大な出来事が起きていることに気づく。3.11でも、泉パウロ氏が七冊ほどもあの地震の真因についての検証シリーズを出版し、「またもや、か?」と思わせられたのだった。

何という時代に自分は生まれてきたのであろうか。2001年に出版社から自分の誕生日にオファーがあり、一ヵ月で書き上げた本が、お金のない世界のファンタジックにして、スピリチュアルなお噺(はなし)だったのもなにか深い訳がありそうな気がする。

 (Webサイト『言海書店』)

 

(「日本にとって運命の年」と書いたのは、こちらをご覧いただくと実感していただけるかと思います。元駐スイス大使村田光平氏のオフィシャルサイトです。

「福島隠し」をしつつ東京五輪開催を断行するこの国の動きにたいし厳しく批判し、ストップをかけようと国民はじめIOC会長など各方面に働きかけておられます。こちらのサイトに寄せられた、2017年以降、環境省・復興庁はじめ関係閣僚や自民党役員が次々と死去しているという衝撃的な報告も見られます。福島第一原発の排気筒解体で危険な状況がつづき、昨年暮れに直接足を運びお聴きしたスピーチでは、福島県庁が村田氏のアドバイスに耳を傾けることが増えてきたとのことでした)

 

東日本大震災と原発事故を機に、自分の人生も大きなターニングポイントを迎えることになる。被災地を訪れ、滞在しながら、広島長崎の原爆以来の放射能による被害をかつての放射能放出量でもはるかに上回ったといわれている被害の下に、そんなことはまったく知らないまま、ただ国の棄民政策にたいし、憤りとも悲しみともつかぬ複雑な想いを抱え、どこかで無力感や失望感にうちひしがれている心を隠せない何人もの人々に遇ったことは、自分がこの社会でどんな役割を果たせるのかについて、考えさせられるよい機会ともなった。

 

それから、たいへんな体験に投げこまれることになった。宇宙の多層構造。意識そのものの多次元的な性格。地球のカルマにおしつぶされそうになり、狭くなっていた意識が拡大したのはたしかだった。福島に行き、現状を知ってからまもなく異次元からの来訪を受けることになったのだが、それをとおして思索を重ね、それらが魂の水底に沈殿してゆくようにだんだんと自分の問題意識や学びを形成し、それが発酵し、文章になるまでになお一年ほどの時日を要した。

2013年2月起稿。福島での体験はじめ数々の霊的体験の織りこまれた小説。よく執筆しつづけてきたものだと思う。これほどの歳月と膨大な紙数を費やすことになろうとは・・・・・・。そして2019年7月。脱稿とほぼ同時にすごいことが起きた。山本太郎氏というたった一人の人間の真実の訴えが、多くの人々のハートに聖なる火を点火した。彼はまるで『裸の王様』に登場する少年のような無垢なまなざしで世界を観、鋭敏な感性と柔らかでオープンなマインド、明晰な頭脳をもって六年の議員生活にピリオドを打つ覚悟で躍り出たのだった。

「忖度」の風潮を破るかのように、「空気は読めるが空気を読まない。人の価値を生産性ではからず、生きていること自体を肯定できる社会を―」をスローガンに掲げ魂からの叫び声をあげた候補者10名の真の言霊に人々が感応した結果、障がい者の国会議員2名が誕生するという日本の民主主義史上いまだかつてない一頁が加わった。個人のもつはかりしれない可能性にスポットライトがあたった。

小説『しじまの彼方から』を六年半の長きにわたり制作してきたからこそ、これだけの熱いエネルギーをともなった民衆の「潜在的ニーズ」と「つながれた」のだと確信できた。

同月に観た映画『新聞記者』が一ヵ月以内に興行収入で4億円を突破したのを知り、クラウドファンディングにより短期で4億円の選挙資金を集めた「れいわ」プロジェクトとのシンクロニシティを感じた。「真実」を求めてやまない感情、民衆一人ひとりの魂からほとばしり出た「真実」への愛だと思った。

 

徳仁天皇と同じ年の生まれである自分が敗戦国に生まれ育ったという事実。そのことは軽んずることのできない大きなテーマをはらんでいるように思われてならない。

幼少のみぎりより母から聞かされるのは空襲警報のことだったり、戦時中は自由に恋愛することもはばかれる空気が世間にはひろがっていたことだったり、いつしか暗いモノトーンのイメージが幼いわたしの心に形成されていった。

 

そしてあれは時代精神をおおいつくす空気だったのだろうか、大学在学中以来ずっと自己の内側と外の世界の境界をなす皮膚で感じてきた虚妄と虚偽と空疎と空虚。いったいなんだろう、これは? ハイデッガーの『存在と時間』にのめりこんだのも、この謎を見極めたかったからだ。わたしの前に現れた怪物。

 

生存というよりも実存の危機に陥れた、心にポッカリとあいた穴。そこを吹き抜けてく風。沈黙の宇宙の底なしの無から吹き上げてくる冷たい風。さみしさと心もとなさ……。

 

それらは、こういった超常的ともいえる体験や邂逅ともいえる現在の妻との出会いなどをとおして、しだいに癒されてゆくことになった。まさに天使の助力ではないか!

 

昔のわたしは自分を取り巻いていた虚無感が社会や時代のものであるとは気づかずに、もっぱら自分のものであると思いこんでいたのではないか、と思う。

 

 世界平和の祈りの大調和宇宙のひろい波動圏に移行することにより、個人の幸せと人類の幸せを同時に祈る意識へと一気に引き上げられることになったのは、三十代初めのことだったけれど、時間をかけ、年数をかけ、さまざまな個人的カルマを浄め、地球と人類のカルマを浄化し、波動を整えるワークをつうじ、次元上昇のためになってきたろう。

 

 そう。さまざまな個人的カルマ。これにも色々とあった。労働の意義にたいする疑問をもちつづけていた頃に商品先物取引に手を出し、ジェットコースターに乗ったように値動きの乱高下に肝を冷やしたり、喜びの絶頂を味わうなど、非日常性と幻想の八カ月間を過したのもそのひとつだった。意識下に潜んでいた欲の想いが現れ出て、消えていった。これこそ神の恩寵と信じた委託証拠金を二日ほどのうちに失われるという苦い体験は、大いなる禊であり、潜在意識の浄化だった。その後、製本工場や冷凍食品工場などでの派遣労働を体験。

 夜は強いほうなので、賃金の少しでも高い夜勤を選び、埋め立て地帯にある工場に通い、真夏でも摂氏十℃以下の環境で働き、休憩時間はベルトコンベアの流れている作業場の重い扉をあけて食堂へ。とたんに眼鏡が真っ白に曇り、視界が見えなくなる。夜食を食べながら、好きな小説の文庫版、アーウィン・ショーの『ニューヨークは闇につつまれて』を開き、何度も読み返したくなる『モニュメント(The Monument)』を心の拠り所にしたり。

 

 夜勤が終わりに近づき、外に出てしばしの開放感にひたり、新鮮な空気を吸う。目を上げれば満天の星だ。碇泊中の船のマストが林立しているのが目にはいる。ここは海に近いとはいえ、人々が寝起きしている街から遠く離れた埋立地だった、と思い出す。工場をあとにする頃、東の空が明け初める。すがすがしい気持ちで帰りにビールを買い、家に着くと心地よい疲れを感じながら缶ビールを飲み干し、ようやくベッドにもぐりこむ。何よりも肉体の若さゆえに味わえたしあわせだったともいえる。それぞれの時期にそれぞれの幸福があるものだ。

 

バブル崩壊から十年がたっていた。この体験がもとになり、地域通貨に関わっていたことから、偶然のように出版社から依頼されてお金と人間の心をテーマに物語を書くこととなった。地球外知的生命体との意識通信や神智学の想念形態の霊視的な内容まで含む今でいうスピリチュアルな色彩の濃い本は、当時の人々の意識水準からして、十年か二十年くらいは出版時期が早かったと、よく評された。

 

エンライトしたマスターであるOSHOに会い、瞑想を知ったことは、1980年代から90年代、そして21世紀以降もつづく、わたしの人生において生命活動の最盛期ともいえる時期を長きにわたり、支配することになったあの虚無感や世の中に蔓延する空疎な波動にたいして、それらに影響されない「結界」を知らぬ間に張ることにつながっていったと考えられる。

 

だが、さらなる防護シールドを張りめぐらせ、それだけでなく人類の波動レベルを上げてゆく仕事に貢献してゆくには、さらに五井先生を知り、世界平和の祈りが日常生活に溶けこむ必要があった。

 

そして原発問題はじめさまざまな環境や健康の汚染や破壊の問題に関心をもち、そのなかで現在の伴侶と出会い、ともに助け合ってスピリチュアルな方面での気づきを深め、魂を開いてゆき、多くの恩寵が降りることで、心が暖かくなり、喜びや感謝が増えていった。

 

 以来、自分が肉体にいると同時に、霊界や神界にもいる拡大した意識に心の波長が合い、大舟に乗ったような楽観的な気持ちで人生を過ごせるようになっていった。不思議と物質的には恵まれ、何とか暮らしてこられたのは、見えない存在の助力に支えられてのことであるにちがいない。それ以外のなにものでもない。それでも、精神的苦労は並大抵のものではなかった。

 

 

考えてみると、子どもの頃から物質的にはあまり苦労はなかったものの、精神的にはなかなか苦労が多かったと思う。

しかし、最後はかならず困難を克服することになっている、ということを知って設定してきたシナリオとなっているのだと、或る時に或る人から言われた。

それからというもの、その言葉はどこか心の片隅にあり、少なからず助けられてきた。

さほどその言葉を信じているとも思えないのに、やっぱり信じている。というよりも、すべてを知っている自分がいる感じでもある。それでも、挫けたりしそうになることは、しょっちゅうある。

 

「最後はかならず困難を克服することになっている、ということを知って設定してきたシナリオとなっている」。

 

たしかに、苦しみと困難が大きいほど、その苦しみと困難を乗り越えた暁には、「こんなたいへんな困難を乗り越えられた自分なのだ」という感動を味わうことできるだろうことは、わかる。

 

達成感という捉え方があまり好きではないけれど、やっぱり宇宙は完璧であり、願うことはかなう、と思いたいと、いつも願う。

 

神様がいることにたいしては、まったく疑ってはいない。もともとそんなこと考えたこともなかったのに、不思議である。

 

祈り……って、ホントに聞かれるの?

 

そういう素朴な疑問をもちながらも、祈りつづけてきている自分。

 

去年の11月にはとうとうアイルランドから初来日したローナ・バーンさんとお逢いすることができた。天使が子どもの頃から見え、いつも話を交わしている方で、数知れぬ人々を救っていらっしゃる。それもなにかのメソッドとかによるのではなくて、彼女の愛と祈りだけなのだ。

 

自分を超えた存在の完全性にたいする信頼を強めることが、もしかししたらここに生まれてきた魂の目的なのかもしれない、とも考える。

 

それをつうじて、自分への信頼と尊敬と愛とをさらに深めてゆく魂の経験。

そう、魂は永遠のいのちの旅をしている。今はそのほんのひとこまなのだ。

 

(終り)