昨年暮れからスタートした『しじまの時間』ですが、長らくプロフィールを掲げていませんでした。看板なしにお店を開くようなものですね。いったいどんな人間が書いているのだろう、と訝しく思われていた方もおられることでしょう。

 大きなテーマがつづいていたので、ここで少し閑話休題で気楽にお読みいただければとも考え、今回は番外編としまして、表題のとおり、わたしのいわば魂の歩み来し道を振り返ることにいたします。

 生来が人前で自己紹介するのが大の苦手。悪い事には、文筆業でも出版社勤務の時期よりもフリーランスの立場で企画の売りこみやライター業をしてきた時代が長くてプロフィールを書く機会が多く、必要性に迫られるたび、なんともいえない億劫な気持ちになるのです。そんなわたしにとって、このたびはじめての試みになりますが、一番わたしらしいプロフィールとはどんなものか、ということを考えてみた末に作成してみました。

こうした決意に果敢に踏みきることができたのも、あることに気づいたからです。プロフィールとはこういうものだという、世の常識がいつのまにか自分の潜在意識に刷りこまれていた。経歴だとか、実績だとか、肩書だとか、そういうものは外皮にすぎず、決して自分自身ではない。かといって、これが自分です、といった実体もある意味存在しない。とすれば、オギャアと生まれてこの方、今日まで生きてきて、見たり聞いたり、体験したりするなかで、思考や感情をとおしてちょうど航跡か飛行機雲のように精神のスクリーンに描かれた心の軌跡みたいなものが、かろうじて「わたしです」といえる、わたしそのものではないが、それをつうじてその人のことが少しは伝わる残影だけが、わたしには意味のあることのように思われてきました。

皆さんには大袈裟に聞こえるでしょうが、この発見は自分の人生の一大転機にもなりえる体験でした。

 

そして、わたしはこれを書いていて、予期もしなかったワクワク体験をしました。わたしという一個の人間を語ることで、そこに湛えられた水に映ってくる時代、またこの国や世界の現実にたいし眼差しを向けさせる力が生じる。それがわかったとき、まるで秘密にアクセスできたように思いました。

うれしかったのは、みずからの内から催すエネルギーにしたがいやり遂げることで、そもそもプロフィールというものに価値や意味を認めにくかったのが、作品を創造する喜びに似た感情を経験することができたことでした。

かけがえのないわたしという存在へのまなざしは、わたしたちを守護している天使の慈しみに溢れたまなざしでもあることでしょう。

 

                                             言海 調(kotoumi shirabe)

 

 

 大学在学中は『小林秀雄と十五年戦争』を卒論に選び「秀」をもらい、大学に残るように指導教授から説得されるも断り、ハイデッガーの哲学に傾倒する。

  

 原書で貪るように朝な夕なに読み耽った『存在と時間(Sein(ザイン) und(ウント) Zeit(ツァイト))』(1927年発表)は、「今ここ」に実存することに落ち着きのなさを感じ、存在に根ざし安らげないという根源的問題を抱え生き悩んでいた当時の自分にとり、救いとなってくれた。地球人類がいよいよ困難な時代へと突入する前夜、第一次大戦と第二次大戦のはざまに生まれ、シュタイナー歿後の二年後に上梓されてハイデッガーの出世作ともなったこの主著の一言一句は心に沁みこむように入ってきて魂救済のひとつの拠り所となった。

 

 

 20世紀最大の思想家と称えられたハイデッガーが他界すると、「巨星墜つ」といわれた。その彼はハイゼンベルクの量子力学にも影響をあたえたことで知られる。もともと哲学発祥の地ともいえる古代ギリシアでは、哲学の始祖である形而上学「メタフィジーク」は、「『在る』とは何かを問う」もので、今日の近代科学の基をなす自然学(physics)の前提となる「第一哲学」として、科学に基礎をあたえる役割をになう分野だった。やがてそれが忘れ去られ、デカルト以降の哲学的思考は西洋近代科学を産み出す基礎となった。

 

それまでの西洋哲学史上の常識だった真理の概念は、認識と対象の一致「真正性」にすぎないと喝破し、もっと本質的な「真理」を究明しようとしたハイデッガーの思惟の根幹に触れた二十一歳のわたしは、真理の語源である「アレテイア-ギリシア語、ウンフェア・ヴォルゲンハイト-ドイツ語=和訳:非隠蔽性、隠れなさ」に出会い感動をおぼえるが、そのことは後に歩みはじめることとなる瞑想への道に自分を導くための伏線となった。

『存在と時間』に没頭し、論文を提出することに注力しすぎたわたしは、ハイデッガー研究者をめざし西洋哲学科の大学院を受験するも失敗。失意のどん底のなかでまさかの肺結核に罹患していたことが、検痰の何十週目だかの培養の結果わかり、法定伝染病ゆえすぐ隔離される。国立療養所にて九カ月間におよぶ療養生活を送る。しかし八カ月かけ翻訳書も参照しつつ原書で『存在と時間』を読了したことはわたしのなかで自信となり、なにか大事なものがつかめた気がした。 

 

 これが転機となり、哲学の道から瞑想の道に転向。就職では新聞記者を志望し、一次試験はパスするも面接で病歴のことを話してひっかかり落ちる。私学進学校の高校教員になるも学校の教育体制と職場の空気にまったく合わなくて働く意義を見出せずに一年で退職。

 

 その頃の世の中の動きに目を転ずると、就職の年である1985年夏に「日本航空123便墜落事故(御巣鷹山事件)」(いまなお真相が闇に葬られたままである。この件に関して青山透子氏の命を賭けたライフワークともいえる真相究明により書かれた著書をご参照のこと)、そして約一ヵ月後国際社会では米国主導により、「プラザ合意」締結となる。このあとバブル経済が起きる。日本のその後の進路にとり決定的となった岐路ともいえる。

 

 

さて、わたし個人の歩みにもどろう。つぎの職業に選んだのが予備校講師で、全国各地に出講。行く先々の土地で色々な人々や風物との出会いをつうじ変化に富んだ日々を送る。その頃、大学時代にすでに出会っていたインドの神秘家で光明を得たマスターであるOSHOに会いにプーナに行き、瞑想の道を歩きはじめるとともに、神智学やクリシュナムルティ、チャネリングに親しむようになる。チャネリングブームの火付け役となったのは宇宙存在『BASHAR(バシャール)』だった。地球よりずっと次元が高く、地球の未来の姿ともいえるエササニ星人の意識体からの通信を地球人が媒体となって伝える、このチャネリング情報が、米国発で日本上陸すると、瞑想センターに出入りしていたアーティストの友人にその本を教えられていち早く購入、恩沢に浴す。

「ワクワクすることをしなさい」というメッセージが日本中を席捲した。このメッセージはOSHOの提唱する「レットゴー(手放し)」や「サレンダー(明け渡し)」と自分の中でつうずるところがあり、自分らしさの追求、社会にたいし自己の自律性をどう確立してゆけるかという人生のテーマの自覚にもつながっていった。

 

80年代終りにかけてバシャールをチャネルするダリルアンカをはじめとするあやこバシャール(関野あやこさん)による公開チャネリングや小百合バシャール(竹原小百合さん)による個人セッションを体験したが、おりしも世界では大変革の波が押し寄せていた。ベルリンの壁崩壊と東西ドイツの融合統一、ソビエト社会主義連邦の終焉などが起きる。時代は確実に世界のボーダレス化と人類の魂のワンネスの方向に霊的進化を遂げてゆくかに見えたが……今から考えると、この期待はあまりに甘かった。若かりし頃のわたしはしだいに現実の無機的な壁に囲まれ、違和感をいだき、煩悶しもがき、鬱屈してゆくことになる。

 

 昭和天皇が崩御され、OSHOは「I leave you my dream.」の言葉を遺し、ボディを離れこの惑星を後にする。

そうやって平成の世の幕が開いたのだ。まだ三十歳になるかならぬわたしはつぎつぎ嫌なものというより、判断停止せざるをえない事象を見せられてゆくことに。地球(ガイア)の夜明けに抵抗し、みずからの欲望を達成せんとして新しい世界秩序と称する現実を築こうとする勢力の蠢動でもあったことだろう。おぞましい事件があいついで起きてくる。こんな現実まで見なくてはならないのか、といった情報がメディアをとおして入ってきても、リアリティを感じにくい。現実感の希薄。奇妙な感覚のなかで無力感が増してゆく。

親の世代は戦争を経験している。日本人としてもっと過酷な目に遭っているはず。だが、戦前派も戦中派も今や同時代人として、日本人としての誇りもなにも骨抜きにされてなすすべもなく糊口をしのぐ一市民であるにすぎなくなってしまったように思われた。

 

バブル経済崩壊、ジュリアナ東京などディスコの流行、さまざまな情報と紙幣が飛び交い、物質的快楽に踊らされて狂喜乱舞し、また株の暴落による落胆の日々が引金となって健康をそこね寿命を縮めた人を身近に見た。

騒然たる時代のあとに来たのは、「失われた20年」(バブル崩壊後の91年以降)と後に呼ばれるようになった長期的な日本経済の低迷期だった。(「一人当たり名目GDPは、1988年から2001年までは日本が世界のベスト5から落ちることはなかったが、2009年に世界19位、2015年では27位に位置している」Wikipedia『失われた20年』より)

 

岐路となったプラザ合意から数えて、十年以内に湾岸戦争、バブル崩壊、阪神淡路大震災、オウム真理教地下鉄サリン事件が起きた。

 

80年代後半から90年代にかけ、たくさんの若者の前に立って話す人気商売の仕事は華やかで実入りも多かったし、移動の多い境遇は自由な精神生活の助けとなった。ともすれば、堕落や奢りの陥穽にはまる危険性もあったはずだが、そのあいだも自己の内側に沈潜し、内なる静寂や平和を味わい、移動中の新幹線で宿泊先のホテルで、つねに自己の内面を見つめ、夢の記録までノオトに記しつづけられたのは、ひとえに瞑想をはじめとする精神世界の体験と情報による叡智に負うところが大きかったと思う。

三十代にはいってまもなく言霊学に出会い、江戸の天保年間に世を去る霊学の大家山口志道(後世の出口王仁三郎、植芝盛平、岡本天明に影響をあたえる)の『水穂伝』などの言霊秘書に親しむことになる。これは自分の言語観と宇宙自然観に決定的な影響をもたらした。

 

また、それまでに精神世界遍歴をつうじて、自分のなかの男性性と女性性の成長と統合、西洋と東洋の統合、物質と精神の統合などのテーマを見出すとともに、その可能性を少しずつ育んでいたが、こうした課題と問題意識はもはや個人的なものではないのだと確信したのは、やがてたどり着くことになった五井昌久先生の提唱する世界平和の祈りの道においてであった。

殊にこの祈りに感応して昭和37年以来、地球外文明よりもたらされたという宇宙子科学における基本をなす精神宇宙子と物質宇宙子が縦横十字に交叉し織りなされる物質波動と精神波動の調和のイメージは自分にピタリときたのだった。

 

この祈りをはじめてすぐに神秘体験をする。また、一年以内に九回訪れた奈良県吉野郡天川村の天河弁財天社で、そして大峰七十五靡きの弥山(みせん)で、下市口まで下る道すがら、奈良に北上してゆく桜井天理線の道路上で、何回も宇宙船との遭遇とおぼしき体験をする。目撃した発光物体から放たれる光はなにかの合図を送ってきていると直観。まるでこの星でずっと孤独を感じきた自分に魂の兄弟から「あなたがたは孤独ではない。わたしたちとは兄弟。世界平和の祈りを祈っていってほしい」といわれたような気がして、友情と応援を感じる。それからしばらくは一時的にエネルギーがパワーアップし、睡眠時間が減り、気分がハイになり、安心感に充たされる。

 

三十代の半ばを過ぎ、フリーライター、出版社で雑誌記者をするなど文筆業に入り、今日に至る。

 

 21世紀になり、ますます混迷は深まる。2008年に『UFOテクノロジー隠蔽工作』(めるくまーる社  2008年刊)をつうじてスティーブン・グリア博士(救命救急医の地位を捨てて1990年に地球外知性研究センターを創設)の存在と命がけの勇敢な活動を知ったことは大いに勇気づけになる。UFO関連機密情報のディスクロージャー・プロジェクトを推進してきたグリア博士が2001年5月に記者会見をおこない、軍関係者はじめ政府・企業の関係者などの証言者による情報公開に踏みきった四カ月後には、9.11事件が起きている。

 

 2003年には米軍のイラク進攻によりイラクの民間人が殺戮に遭う。数年後、ジャーナリストに会い長時間にわたり向こうでなにが起きているのか、マスコミが報道しない話を聞くことができた。取材のためテレビ局をやめて単独でファルージャ入り、現地に長期滞在して命がけで撮りつづけた人だった。こうしたリアルな接触やネットをつうじても、真実とそうでないフェイクとを見分ける力をつけていった。すべて自分の精神の能力を鍛え、魂を磨くトレーニングとできた。それもきっと魂の計画として来たるべき時に備えてつちかわれていた日頃の見えない努力と探求心の賜物であったことだろう。(つづく)