尖閣諸島が中国領ではない5つの理由
http://www.youtube.com/watch?v=05x4iciT_z8
クニモニノラ<
動画が早すぎるので 文字起こししてみました。
よく理解できました。
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理由1:国際法
『パルマス島事件』判例(1928年)
1)地理的近接性に基づく権原は国際法において根拠を持たない。
2)発見に基づく権原は未成熟な権原である。
3)もし他の国が継続的で現実的な主権の行使を始め、発見国が抗議を行わなかった場合、主権を行使する国の権原は、単なる発見に基づく権原よりも大きい。
*1971年まで、中華人民共和国と中華民国の両国は日本の尖閣諸島の領有に対してなんら抗議を行わなかったばかりか、次に掲げる証拠から明らかなように、両国が発行する文書、新聞、教科書、地図において明示的、継続的に尖閣諸島を日本領として承認してきた。
*1920年、難破した中国人漁民を尖閣諸島の日本人住民が救助したとき、中華民国は感謝状を日本に送り、その中に「日本帝国沖縄県八重郡尖閣列島」と記載して、尖閣諸島が日本領であることをはっきりと認めている。
中華人民共和国も、1953年1月8日の人民日報で、尖閣諸島を沖縄の一部として解説していた。
中華人民共和国が発行した1958年の地図でも、尖閣諸島には日本名が記載され、日本の領土として描かれていた。
中華民国も、1965年に発行した地図の中で、尖閣諸島を日本領として取り扱い、日本名を記載している。
中華民国が1958年に発行した地理の教科書の中で、彭佳嶼が台湾最北端の島として記述され、尖閣諸島は中華民国の領土からは除外されている。
◆中国は76年間一貫して尖閣諸島を日本領として承認しつづけた後、1971年に忽然として領有権を主張しばじめた。
国際法によれば、明らかに中国は尖閣諸島の領有権を主張する権原をもはや有してはいない。
理由2:中国人は尖閣諸島の最初の発見者ではない
◇ 国際法は、「発見に基づく権原は未成熟な権原」であると述べるが、中国はその「発見に基づく権原」すら有していないのだ。
◇ 琉球王国は1372年から1879年まで507年間に及び、中国の明朝・清朝と冊封関係にあった。
新しい王が即位する際には、中国の皇帝から冊封使が派遣され、冊封儀式を執り行った。
当時、琉球・中国間の航海は、最短距離を直線で進むのではなく、航海の安全のため、点と点を結ぶように、島を目印にしながら行われていた。
冊封使は、旧暦五月の頃に、琉球の交易指定港であった中国の福州を出発し、台湾の北東に位置する花瓶嶼、彭佳嶼、棉花嶼の3つの無人島を通り、魚釣島、久場島、大正島という尖閣諸島の島々の間を通過し、黒潮の流れる沖縄トラフを横切り、久米島を経て、琉球王国に到着した。
冊封使たちは、琉球に約200日ほど滞在して丁重な歓待を受けた後、中国に戻ると、次の冊封使のために、琉球への行程や内情に関する記録を書き遺した。現在、11冊の冊封使たちによる琉球訪問の記録が残されている。
これら冊封使録の中に尖閣諸島は何度か言及されている。これが中国が尖閣諸島が中国人によって最初に発見されたと主張する理由である。
しかし、記録によれば、507年間で中国の冊封使が琉球王国に渡航したのはわずか23回である。
その一方で琉球の進貢船が福州に渡航したのは、少なく見積もっても580回を下回ることはない。
さらに、最も古い冊封使録、陳侃『使琉球録』(1534)の中に、次のような記述を読むことができる。
・・・略・・また世継ぎは中国人が船をうまく操れないことを心配し、肴針通事一名と、中国人に代わって船をうまく操ることのできる三十人の琉球人を共に派遣したのだと述べた。迎接船の先導に頼らず、琉球人の同船を得て共に海を渡れることを私は喜んだ。
*つまり 中国の冊封使船すら、中国人ではなく、琉球人らによって操縦されていたのだ。
当然、私たちは尖閣諸島は中国人によってではなく、琉球人によって最初に発見されたと結論せざるをえない。
理由3:中国が尖閣諸島に実効支配を行った歴史的事実は存在しない
中国は、中国の歴史的な文書の記述に基づいて、黒潮が流れる沖縄トラフが中国と琉球王国の伝統的な国境線であり、久米島が琉球王国の西端であったと主張している。
本当にそうだろうか。
現存する最古の冊封使録、冊封使・陳侃の『使琉球録』(1534)によれば、琉球人たちは久米島を琉球王国の最西端と見なしていた。
また冊封使・郭汝霖による『重刻使琉球録』(1561)には、大正島(赤尾嶼)が中国と琉球王国を区切る島だったと書かれている。
さらに別の冊封使録、冊封使・汪楫の『使琉球雑録』(1683)によれば、当時、沖縄トラフが中国と琉球王国の国境と見なされていた。
これらの冊封使録の記述に基づいて、中国は沖縄トラフが中国と琉球王国の歴史的国境であり、久米島が琉球王国の西端であると結論する。
◇彼らの主張は正しいだろうか?次の例を考えていただきたい。
≪例えば、二人の男が隣同士で暮らしていたとしよう。ある日、男がもう片方の男の家を訪問したあとで家路についたとする。
彼は家に着いた時、「家についた(ただいま)!!」と叫んだ。それを遠くから見ていたもう一人の男が言った。
今「家に着いた」と言ったね。つまり、そこからが君の家なのだから、この部分が僕の土地ってことになるね。≫
琉球人の船乗りたちは久米島に着いたときに小躍りして喜んだ。
尖閣諸島は無人島だが、久米島には彼らの家族や友人や同胞が暮らすのだから当たり前の話である。
琉球人たちが、人が居住する島である久米島以東を琉球王国の領土と考えたとして、なんの不思議な点もない。
*しかし、このことは、沖縄トラフから西が自動的に中国の領土であることを意味しない。領有権の主張のためには「実効的支配」が確立されていなければならないからだ。
もしこの主張が正しいならば、次のように言うことも可能になる。
当然ながら中国人の冊封使たちも福州に戻ったときに、うれしそうに「ただいま」と言ったはずなのだ。同じ論理を当てはめるならば、冊封使たちが福州を彼らの故郷と考えたという理由で、自動的に東シナ海全体を琉球王国の領域と見なさなければならないことになってしまう。
沖縄トラフが琉球王国と中国の海上における歴史的な国境だったとする中国の主張に関しては、果たして当時の東アジアに海上の国境なる概念が存在していたのかということ自体が疑わしい。
猟かい排他的経済水域といった概念は最近ようやく明確にされてきた概念だからだ。
それはさておき、冊封使・汪楫による『使琉球雑録』(1683)の記述を注意深く読むなら、ここで述べられている「中外之界」が、決して政治的な国境を意味するものでないことは明白になる。
ここで「中外之界」という言葉を使っているのは、冊封使・汪楫自身ではなく、琉球人と思われる船員たちである。
このことは冊封使に任命された中国人の官吏でさえも、「中外之界」なるものが海上に存在することを全く承知していなかったという事実を端的に暴露してしまっている。
さらにこの船員たちでさえ、「中外之界」の正確な場所は「推測」することができるだけだと述べている。
これをどうして琉球王国と中国の間に惹かれたオフィシャルで政治的な国境線だったと見なすことができるだろうか。
当然、ここで言われている「中外之界」は、決して政治的な国境線ではなく、むしろ文化的、宗教的、象徴的、心理的な境界を意味することは明白である。
潮流の強い沖縄トラフは当時の航海での危険なスポットであり、それを超えることに船乗りたちが特別な意識を抱いて、安全を祈願する儀式を開いたというに過ぎない。
また冊封使・李鼎元による『使琉球記』(1800)の中に 記述があり、「中外之界」が国境を意味するものではなかったという私たちの主張を裏付けている。
ここには、1800年の時点で、「中外之界」の別名である「溝」や「黒水溝」といった概念が琉球人にすっかり忘れ去られてしまっていることが記されている。
これはおそらく航海技術の進歩により、沖縄トラフの航海にそれほど船員たちが恐怖を抱かなくなったことが原因として考えられよう。
中国はまた、明の時代に書かれた鄭若曽『籌海図編』(1562)や、鄭舜功『日本一艦』(1555)のような倭冦対策の書物に、尖閣諸島が描かれていることが、明の時代、尖閣諸島が中国の防衛圏内に含まれていたことの証拠であると主張している。
だが、ある地域に関する本や地図を上梓するだけで、領有権は確立されるものではない。
中国には尖閣諸島のみならず、日本や朝鮮、フィリピンやベトナムについて記述した歴史書が古来より多く存在するが、それらの書物が存在するからといって、それらの国々が中国領ということにはならない。
それらの明時代の文書が領有権の根拠にはならない証拠として、いくつかの歴史的事実を列挙しておきたい。
*それらの文書に台湾も描かれているが、明の時代、台湾はまだ中国の領土となってはいなかった。
その時代には、「台湾」という名前すら存在せず、中国人は台湾を「琉球」と呼んだり、「小琉球」と呼んだりして台湾と琉球の区別すらしていなかった。
*中国の正史、二十四史の一つ『明史』は、台湾を「外国」の巻に記述し、外国として取り扱っている。
*さらに『台湾府志』(1696)や『続修台湾府志』(1765)など清朝時代に書かれた台湾に関する中国の公文書は、台湾の北限は「大鶏籠嶼」(現在の和平島」であると記述している。
*さらに、中華民国の公文書『基隆市志』(1954)や『台湾地方自治誌要』(1965)によれば、花瓶嶼、彭佳嶼、棉花嶼のような台湾にはるかに近い島嶼が台湾に編入されたのは1905年のことである。
★それらの島よりも、はるか沖合に存在する尖閣諸島が明の時代から中国領であったなどという主張がどうして成り立つだろうか。
中国がこれまでに尖閣諸島に実効支配を行ったという歴史的事実は存在しない。
従って私たちは冊封使・李鼎元と共に次のように言わなくてはならない。
「聞きかじりの話をどうして真に受けてよいものであろうか。琉球の人は毎年一回航海しているのに黒溝を知らない。とすれば、黒溝などは存在しないのだといえよう」李鼎元『使琉球記』(1800)
理由4:林子平の『琉球三省並三十六島之図』(1786)は日本が尖閣諸島を中国領と認めていた根拠にはならない
中国はしばしば、尖閣諸島が中国領であった根拠として、日本の海防論者・林子平の書『三国通覧図説』(1786)に添付された地図『琉球三省井三十六島之図』を好んで引用する。
この地図で尖閣諸島が中学本土と同じピンクで塗られているため、江戸時代の日本人が尖閣諸島を中国領として認めていた証拠だと中国は主張する。
しかし、この地図を注意深く見てみると、台湾が中国本土と異なった黄色で塗られているのに気づく。
この地図がつくられた18世紀後半には台湾は既に清朝に編入されて100年が経過していた。台湾が中国本土と同じピンクで塗られていないのはなぜだろうか。
同じ『三国通覧図説』(1786)に添付された別の地図『三国通覧嶼地路程全図』を見ると、さらに興味深い事実に気がつく。
台湾は朝鮮と同じ黄色で塗られ、日本は満州と同じ緑色で塗られている。
林子平は台湾は朝鮮領であり、満州は日本領であると認めていたということだろうか。
もちろん、そんなことはあり得ない。
従って、私たちはこの地図が当時の日本人が尖閣諸島を中国領と見なしていた証拠であると見なすことはできない。
理由5:尖閣諸島はもともと中国領ではないのでカイロ宣言は尖閣諸島に適用されない
中国は尖閣諸島は古代から中国の固有の領土であり、日本が日清戦争(1894-1895)の過程で中国から掠め取った島なので、カイロ宣言に基づいて中国に返還しなければならないと主張する。
しかし、既に見てきたように
1,中国は尖閣諸島の最初の発見者ではない。
2,中国がこれまでに尖閣諸島を実効支配していた歴史的事実は存在しない。
3,中国は1971年まで76年間、尖閣諸島を日本領として承認していた。
尖閣諸島が中国の領土であったことは一度もない以上、尖閣諸島はカイロ宣言と無関係である。
結論:中国の帝国主義
既に見てきたように
尖閣諸島は、国際法に定める手続きに厳格にしたがって日本に編入された法的に正当な日本の領土であり、それ以前に中国の領土であったという歴史的事実は存在しない。
近代以前には「無主地(Tella nullius)と呼ばれる、どの国の実効支配も及ばない地域が世界に多く散在しており、尖閣諸島もそのような地域の一つだったのだ。
にも関わらず、中国は国際法を完全に無視し、それまで日本の領土であると自分たちが長い間承認してきた歴史的事実を無視してまで、恥知らずなやり方で尖閣諸島は自分たちの領土であると主張している。
中国は言う。尖閣諸島は「もともと」日本のものではなかったと。
■彼らはむしろ自分たち自身に言うべきだろう。
■チベットは「もともと」中国の領土ではなかった。
■ウイグルは「もともと」中国の領土ではなかった。
■内モンゴルは「もともと」中国の領土ではなかった。
■満州は「もともと」中国の領土ではなかったと。
中国人自身が万里の長城を明の時代に再建し「中外之界」を明確にしている。
この境界は政治的・軍事的な明確な国境線であって、単に文化的・象徴的な境界ではなかった。
★中国はチベット、ウイグル、内モンゴル、満州を侵略し併合してきた、その拡大の延長線上に、
尖閣諸島、沖縄、台湾が存在している。
中国は「中華帝国の復興」という最終目的を実現するまで、決してその侵略と拡大の手をゆるめることはないだろう。
★1995年、当時の中国の首相である李鵬は、当時のオーストラリアの首相ポール・キーティングに、20年後、日本と呼ばれる国はなくなっているだろうと蒙語した。
私たち日本人は、中国の邪悪な拡大の意図から、私たちの国土と伝統を守り抜くことができるだろうか。
★尖閣諸島問題は、国際法や民主主義や主権国家間の対等な関係といった近代的価値に基づく現代の国際秩序の再興をもくろむ中華帝国間との衝突である。
(主に国士舘大学教授奥原敏雄教授の論文から多く参照させていただいています。
7 minute Lesson on the History of PRC 7分でわかる中華人民共和国の歴史
http://www.youtube.com/watch?v=4gexIGHWSzY
クニモニノラ<
こんな、悪魔の国に経済援助しつづけて、こんなにも日本は舐められて・・・
どんどん中華帰化人が増えて 東京は30人に一人が中国人です。
そのうち、ウイグル、チベットのように日本併合・日本人民族浄化の憂き目に合うのです。寝ぼけてる場合ではないです。
すべての日本人に捧ぐ
http://www.youtube.com/watch?v=FHwLx_JRo_k
http://www.youtube.com/watch?v=05x4iciT_z8
動画が早すぎるので 文字起こししてみました。
よく理解できました。
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理由1:国際法
『パルマス島事件』判例(1928年)
1)地理的近接性に基づく権原は国際法において根拠を持たない。
2)発見に基づく権原は未成熟な権原である。
3)もし他の国が継続的で現実的な主権の行使を始め、発見国が抗議を行わなかった場合、主権を行使する国の権原は、単なる発見に基づく権原よりも大きい。
*1971年まで、中華人民共和国と中華民国の両国は日本の尖閣諸島の領有に対してなんら抗議を行わなかったばかりか、次に掲げる証拠から明らかなように、両国が発行する文書、新聞、教科書、地図において明示的、継続的に尖閣諸島を日本領として承認してきた。
*1920年、難破した中国人漁民を尖閣諸島の日本人住民が救助したとき、中華民国は感謝状を日本に送り、その中に「日本帝国沖縄県八重郡尖閣列島」と記載して、尖閣諸島が日本領であることをはっきりと認めている。
中華人民共和国も、1953年1月8日の人民日報で、尖閣諸島を沖縄の一部として解説していた。
中華人民共和国が発行した1958年の地図でも、尖閣諸島には日本名が記載され、日本の領土として描かれていた。
中華民国も、1965年に発行した地図の中で、尖閣諸島を日本領として取り扱い、日本名を記載している。
中華民国が1958年に発行した地理の教科書の中で、彭佳嶼が台湾最北端の島として記述され、尖閣諸島は中華民国の領土からは除外されている。
◆中国は76年間一貫して尖閣諸島を日本領として承認しつづけた後、1971年に忽然として領有権を主張しばじめた。
国際法によれば、明らかに中国は尖閣諸島の領有権を主張する権原をもはや有してはいない。
理由2:中国人は尖閣諸島の最初の発見者ではない
◇ 国際法は、「発見に基づく権原は未成熟な権原」であると述べるが、中国はその「発見に基づく権原」すら有していないのだ。
◇ 琉球王国は1372年から1879年まで507年間に及び、中国の明朝・清朝と冊封関係にあった。
新しい王が即位する際には、中国の皇帝から冊封使が派遣され、冊封儀式を執り行った。
当時、琉球・中国間の航海は、最短距離を直線で進むのではなく、航海の安全のため、点と点を結ぶように、島を目印にしながら行われていた。
冊封使は、旧暦五月の頃に、琉球の交易指定港であった中国の福州を出発し、台湾の北東に位置する花瓶嶼、彭佳嶼、棉花嶼の3つの無人島を通り、魚釣島、久場島、大正島という尖閣諸島の島々の間を通過し、黒潮の流れる沖縄トラフを横切り、久米島を経て、琉球王国に到着した。
冊封使たちは、琉球に約200日ほど滞在して丁重な歓待を受けた後、中国に戻ると、次の冊封使のために、琉球への行程や内情に関する記録を書き遺した。現在、11冊の冊封使たちによる琉球訪問の記録が残されている。
これら冊封使録の中に尖閣諸島は何度か言及されている。これが中国が尖閣諸島が中国人によって最初に発見されたと主張する理由である。
しかし、記録によれば、507年間で中国の冊封使が琉球王国に渡航したのはわずか23回である。
その一方で琉球の進貢船が福州に渡航したのは、少なく見積もっても580回を下回ることはない。
さらに、最も古い冊封使録、陳侃『使琉球録』(1534)の中に、次のような記述を読むことができる。
・・・略・・また世継ぎは中国人が船をうまく操れないことを心配し、肴針通事一名と、中国人に代わって船をうまく操ることのできる三十人の琉球人を共に派遣したのだと述べた。迎接船の先導に頼らず、琉球人の同船を得て共に海を渡れることを私は喜んだ。
*つまり 中国の冊封使船すら、中国人ではなく、琉球人らによって操縦されていたのだ。
当然、私たちは尖閣諸島は中国人によってではなく、琉球人によって最初に発見されたと結論せざるをえない。
理由3:中国が尖閣諸島に実効支配を行った歴史的事実は存在しない
中国は、中国の歴史的な文書の記述に基づいて、黒潮が流れる沖縄トラフが中国と琉球王国の伝統的な国境線であり、久米島が琉球王国の西端であったと主張している。
本当にそうだろうか。
現存する最古の冊封使録、冊封使・陳侃の『使琉球録』(1534)によれば、琉球人たちは久米島を琉球王国の最西端と見なしていた。
また冊封使・郭汝霖による『重刻使琉球録』(1561)には、大正島(赤尾嶼)が中国と琉球王国を区切る島だったと書かれている。
さらに別の冊封使録、冊封使・汪楫の『使琉球雑録』(1683)によれば、当時、沖縄トラフが中国と琉球王国の国境と見なされていた。
これらの冊封使録の記述に基づいて、中国は沖縄トラフが中国と琉球王国の歴史的国境であり、久米島が琉球王国の西端であると結論する。
◇彼らの主張は正しいだろうか?次の例を考えていただきたい。
≪例えば、二人の男が隣同士で暮らしていたとしよう。ある日、男がもう片方の男の家を訪問したあとで家路についたとする。
彼は家に着いた時、「家についた(ただいま)!!」と叫んだ。それを遠くから見ていたもう一人の男が言った。
今「家に着いた」と言ったね。つまり、そこからが君の家なのだから、この部分が僕の土地ってことになるね。≫
琉球人の船乗りたちは久米島に着いたときに小躍りして喜んだ。
尖閣諸島は無人島だが、久米島には彼らの家族や友人や同胞が暮らすのだから当たり前の話である。
琉球人たちが、人が居住する島である久米島以東を琉球王国の領土と考えたとして、なんの不思議な点もない。
*しかし、このことは、沖縄トラフから西が自動的に中国の領土であることを意味しない。領有権の主張のためには「実効的支配」が確立されていなければならないからだ。
もしこの主張が正しいならば、次のように言うことも可能になる。
当然ながら中国人の冊封使たちも福州に戻ったときに、うれしそうに「ただいま」と言ったはずなのだ。同じ論理を当てはめるならば、冊封使たちが福州を彼らの故郷と考えたという理由で、自動的に東シナ海全体を琉球王国の領域と見なさなければならないことになってしまう。
沖縄トラフが琉球王国と中国の海上における歴史的な国境だったとする中国の主張に関しては、果たして当時の東アジアに海上の国境なる概念が存在していたのかということ自体が疑わしい。
猟かい排他的経済水域といった概念は最近ようやく明確にされてきた概念だからだ。
それはさておき、冊封使・汪楫による『使琉球雑録』(1683)の記述を注意深く読むなら、ここで述べられている「中外之界」が、決して政治的な国境を意味するものでないことは明白になる。
ここで「中外之界」という言葉を使っているのは、冊封使・汪楫自身ではなく、琉球人と思われる船員たちである。
このことは冊封使に任命された中国人の官吏でさえも、「中外之界」なるものが海上に存在することを全く承知していなかったという事実を端的に暴露してしまっている。
さらにこの船員たちでさえ、「中外之界」の正確な場所は「推測」することができるだけだと述べている。
これをどうして琉球王国と中国の間に惹かれたオフィシャルで政治的な国境線だったと見なすことができるだろうか。
当然、ここで言われている「中外之界」は、決して政治的な国境線ではなく、むしろ文化的、宗教的、象徴的、心理的な境界を意味することは明白である。
潮流の強い沖縄トラフは当時の航海での危険なスポットであり、それを超えることに船乗りたちが特別な意識を抱いて、安全を祈願する儀式を開いたというに過ぎない。
また冊封使・李鼎元による『使琉球記』(1800)の中に 記述があり、「中外之界」が国境を意味するものではなかったという私たちの主張を裏付けている。
ここには、1800年の時点で、「中外之界」の別名である「溝」や「黒水溝」といった概念が琉球人にすっかり忘れ去られてしまっていることが記されている。
これはおそらく航海技術の進歩により、沖縄トラフの航海にそれほど船員たちが恐怖を抱かなくなったことが原因として考えられよう。
中国はまた、明の時代に書かれた鄭若曽『籌海図編』(1562)や、鄭舜功『日本一艦』(1555)のような倭冦対策の書物に、尖閣諸島が描かれていることが、明の時代、尖閣諸島が中国の防衛圏内に含まれていたことの証拠であると主張している。
だが、ある地域に関する本や地図を上梓するだけで、領有権は確立されるものではない。
中国には尖閣諸島のみならず、日本や朝鮮、フィリピンやベトナムについて記述した歴史書が古来より多く存在するが、それらの書物が存在するからといって、それらの国々が中国領ということにはならない。
それらの明時代の文書が領有権の根拠にはならない証拠として、いくつかの歴史的事実を列挙しておきたい。
*それらの文書に台湾も描かれているが、明の時代、台湾はまだ中国の領土となってはいなかった。
その時代には、「台湾」という名前すら存在せず、中国人は台湾を「琉球」と呼んだり、「小琉球」と呼んだりして台湾と琉球の区別すらしていなかった。
*中国の正史、二十四史の一つ『明史』は、台湾を「外国」の巻に記述し、外国として取り扱っている。
*さらに『台湾府志』(1696)や『続修台湾府志』(1765)など清朝時代に書かれた台湾に関する中国の公文書は、台湾の北限は「大鶏籠嶼」(現在の和平島」であると記述している。
*さらに、中華民国の公文書『基隆市志』(1954)や『台湾地方自治誌要』(1965)によれば、花瓶嶼、彭佳嶼、棉花嶼のような台湾にはるかに近い島嶼が台湾に編入されたのは1905年のことである。
★それらの島よりも、はるか沖合に存在する尖閣諸島が明の時代から中国領であったなどという主張がどうして成り立つだろうか。
中国がこれまでに尖閣諸島に実効支配を行ったという歴史的事実は存在しない。
従って私たちは冊封使・李鼎元と共に次のように言わなくてはならない。
「聞きかじりの話をどうして真に受けてよいものであろうか。琉球の人は毎年一回航海しているのに黒溝を知らない。とすれば、黒溝などは存在しないのだといえよう」李鼎元『使琉球記』(1800)
理由4:林子平の『琉球三省並三十六島之図』(1786)は日本が尖閣諸島を中国領と認めていた根拠にはならない
中国はしばしば、尖閣諸島が中国領であった根拠として、日本の海防論者・林子平の書『三国通覧図説』(1786)に添付された地図『琉球三省井三十六島之図』を好んで引用する。
この地図で尖閣諸島が中学本土と同じピンクで塗られているため、江戸時代の日本人が尖閣諸島を中国領として認めていた証拠だと中国は主張する。
しかし、この地図を注意深く見てみると、台湾が中国本土と異なった黄色で塗られているのに気づく。
この地図がつくられた18世紀後半には台湾は既に清朝に編入されて100年が経過していた。台湾が中国本土と同じピンクで塗られていないのはなぜだろうか。
同じ『三国通覧図説』(1786)に添付された別の地図『三国通覧嶼地路程全図』を見ると、さらに興味深い事実に気がつく。
台湾は朝鮮と同じ黄色で塗られ、日本は満州と同じ緑色で塗られている。
林子平は台湾は朝鮮領であり、満州は日本領であると認めていたということだろうか。
もちろん、そんなことはあり得ない。
従って、私たちはこの地図が当時の日本人が尖閣諸島を中国領と見なしていた証拠であると見なすことはできない。
理由5:尖閣諸島はもともと中国領ではないのでカイロ宣言は尖閣諸島に適用されない
中国は尖閣諸島は古代から中国の固有の領土であり、日本が日清戦争(1894-1895)の過程で中国から掠め取った島なので、カイロ宣言に基づいて中国に返還しなければならないと主張する。
しかし、既に見てきたように
1,中国は尖閣諸島の最初の発見者ではない。
2,中国がこれまでに尖閣諸島を実効支配していた歴史的事実は存在しない。
3,中国は1971年まで76年間、尖閣諸島を日本領として承認していた。
尖閣諸島が中国の領土であったことは一度もない以上、尖閣諸島はカイロ宣言と無関係である。
結論:中国の帝国主義
既に見てきたように
尖閣諸島は、国際法に定める手続きに厳格にしたがって日本に編入された法的に正当な日本の領土であり、それ以前に中国の領土であったという歴史的事実は存在しない。
近代以前には「無主地(Tella nullius)と呼ばれる、どの国の実効支配も及ばない地域が世界に多く散在しており、尖閣諸島もそのような地域の一つだったのだ。
にも関わらず、中国は国際法を完全に無視し、それまで日本の領土であると自分たちが長い間承認してきた歴史的事実を無視してまで、恥知らずなやり方で尖閣諸島は自分たちの領土であると主張している。
中国は言う。尖閣諸島は「もともと」日本のものではなかったと。
■彼らはむしろ自分たち自身に言うべきだろう。
■チベットは「もともと」中国の領土ではなかった。
■ウイグルは「もともと」中国の領土ではなかった。
■内モンゴルは「もともと」中国の領土ではなかった。
■満州は「もともと」中国の領土ではなかったと。
中国人自身が万里の長城を明の時代に再建し「中外之界」を明確にしている。
この境界は政治的・軍事的な明確な国境線であって、単に文化的・象徴的な境界ではなかった。
★中国はチベット、ウイグル、内モンゴル、満州を侵略し併合してきた、その拡大の延長線上に、
尖閣諸島、沖縄、台湾が存在している。
中国は「中華帝国の復興」という最終目的を実現するまで、決してその侵略と拡大の手をゆるめることはないだろう。
★1995年、当時の中国の首相である李鵬は、当時のオーストラリアの首相ポール・キーティングに、20年後、日本と呼ばれる国はなくなっているだろうと蒙語した。
私たち日本人は、中国の邪悪な拡大の意図から、私たちの国土と伝統を守り抜くことができるだろうか。
★尖閣諸島問題は、国際法や民主主義や主権国家間の対等な関係といった近代的価値に基づく現代の国際秩序の再興をもくろむ中華帝国間との衝突である。
(主に国士舘大学教授奥原敏雄教授の論文から多く参照させていただいています。
7 minute Lesson on the History of PRC 7分でわかる中華人民共和国の歴史
http://www.youtube.com/watch?v=4gexIGHWSzY
こんな、悪魔の国に経済援助しつづけて、こんなにも日本は舐められて・・・
どんどん中華帰化人が増えて 東京は30人に一人が中国人です。
そのうち、ウイグル、チベットのように日本併合・日本人民族浄化の憂き目に合うのです。寝ぼけてる場合ではないです。
すべての日本人に捧ぐ
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