6月初め
安曇野へ。

行けるともなく
行くことのできたリトリート。



その中でのこと。

結構大人数^^

土地にゆかりのある方と
サポート(かなり強力な^^)として
メインで祈りを捧げられる数名の方々と

一緒に雨のなか
行列で
少し山に入った。

祈りの場での出来事は
ご本人や皆さんが書いてらっしゃるので
ごめんなさい割愛しちゃう。
(不親切すぎる^^w)

そのあと

またさらに奥に登って
大きな岩のある場所に移動した。

眼前に立つ岩を見て
ちいさないのりと少し佇む時間があったのだけど、
わたしはそれを少し下から見てて

パシーン
パシーン
パシーン

という
どなたかが大きな響きの柏手を打ってる
姿が浮かんだ。


おお、実際の音も
とても響くだろうな、気持ちいいだろうな、
聞きたい、
と思った。
きっとどなたか打つだろうと思っていたけど
その気配はなく、


みんながそのまま
下に降りていくのを見て、

あれ?あれ?
打たないの???

あ、外した、
また
余計な妄想してしまった、と
自分の感じたことを一瞬否定したのだ。




だけれども
ここで
岩に反響する柏手の音を聞きたい!!!
と自分は言ってる。


みんなが降りて行ってまだ最後尾はみえるころ

数人残る中、

邪魔にならないよう意識しながら

磐座(というより岩壁なんだが)に挨拶して

見たイメージのリズムで
3回の柏手を打つ。



今回のように
まつりをメインで発足した人がいて
彼らがとても大切にしているその場に

ただ
初めてやってきた

土地にゆかりのない人が 
何かすることの
傲慢さになるのではないかとのことも
もちろん重々承知しながら

だけれども

そのビジョンをわたしの中で
無視することもできなくて、
行動してみた。


しなかったら
後でかなり後悔していたはず。

音は、
ビジョンほどではなかったけれど、

ちゃんと響いた。

これだこれ。
と心が充足するのを感じた。

それをその場にいてくれた友人に

「関係のない人がやることの、
(上記内容を参考^^)…」

との注意ももちろん受けたが笑
(これとても大切、
審神者的な意見を言ってもらって
なおどうするか、だから。)


感じたことをその時
何を選択するか、
の意識を自分で考えた瞬間でもありました。


まだまだ
エゴで間違うこともあるけれど
純粋にその場に
届けたいものがあるなら

自分の感覚を信じて
やってもいいと思う。



その日から2週間くらい経って

それを振り返ってたときに


「3回」は

ちり、ほどける
「散解」である、

という言葉が浮かんだ。


ああ、
だから 3回打つのは
解放って言われるんだ。

と納得、

という感覚を得た日が来た。

あの場で
漂っていたかもしれない幾多の何かに
届いたのかもしれない。



強いビジョンであるかないかは兎も角、

思い過ごし、で
自分の感覚を
無下にしないこと、

自分を信じること、



そんなことを知ることができた
リトリートでした。








はんにゃ