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<念願の駐在員に>
中学生の時に、社会科の教科書で目にした北欧のフィヨルドの美しさにひかれました。長崎大サッカー部時代、練習試合中に顔にボールがあたり、網膜剥離を患いました。手術後の暗闇と、失明の恐怖。病床で視力が戻ったら、世界中を駆けめぐりたいとの思いが強くなりました。この二つの出来事が商社に導いたのでしょう。
念願の海外駐在が実現したのは37歳の時です。国内では不採算事業の処理に追われており、海外赴任のチャンスを何度も逃した後でした。米国での仕事は、現地の鉄鋼部門の抜本改革です。1980年代後半、日本はバブル景気に沸いていましたが、米国の製造業は厳しい環境にありました。
経営の厳しさも知りました。「私が最後の社長だ」。ある鉄鋼子会社の社長が、売却交渉の場でおもむろに口を開いたのです。長年勤めた会社への積年の思い。ほとばしる言葉の一つ一つの重みが胸に染みました。
日商岩井米国の経理担当として、鉄鋼事業の再建を目指してきました。しかし、人員削減など最も厳しい仕事を担ってくれたのは、私よりずっと年上だった米国の経営者たちでした。
現状を打開したいとの気持ちは一緒でした。私の意見もよく聞いてくれました。それでも彼らは、人に委ねず、自ら苦渋の決断をした。その強い意志と覚悟は今も忘れられません。着任後1年で1社を売却し、4社は黒字になりました。
<忘れられない言葉>
2度目の米国駐在は、最初の赴任から10年後です。旧日商岩井はバブル崩壊の荒波を乗り切ってきましたが、98年秋に、金融子会社への債権放棄などで約1600億円の特別損失を出し、初の無配に転落したのです。
売れるものはすべて売れ。本社から厳命が来ました。財務部門の幹部だった私は、有価証券や社宅などを手当たり次第に現金化しました。
本社再建の命をうけ、先に帰国した先輩が忘れられません。「1度でいい。会社を生き残らせるチャンスがほしい」。彼は危機脱却に手腕をふるいましたが、病に倒れて会社を去りました。帰らぬ人となった彼が、帰国前につぶやいた願いが今も耳に残っています。
<合併を実現>
帰国後は、2003年4月の旧日商岩井と旧ニチメンの経営統合に向けた実務を担当しました。優先株を発行し、銀行の金融支援を受け、生き延びる機会を得ました。その過程で、商社にとって財産である優秀な人材を失ったのも事実です。
合併から10年。過酷な合理化を生き残ってきた社員が、自分は必要とされていると感じられる会社にしたい。双日の社員であることを誇りに思える環境を作ることが、経営者としての使命だと思っています。(聞き手 佐々木鮎彦)
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《メモ》 総合商社の双日は、100年以上の歴史を持つ旧ニチメンと旧日商岩井が2003年4月、共同持ち株会社を設立。04年4月に傘下の子会社2社が合併し、「双日」としてスタートした。世界約50か国・地域に展開し、航空機販売事業、レアアース事業などに強みを持つ。13年3月期連結決算(国際会計基準)の売上高は3兆9344億円、税引き後利益は134億円。社員数は1万6136人(13年9月末現在)。