
金川裕一(かながわ・ゆういち) 54 キューアンドエー社長
<街の電器屋を起業>
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会社を起こしたい。パソコンが家庭でも使われ始めた1996年、横河電機の社員時代です。IT機器の困りごとに応えられる店を出そうと、社内ベンチャー制度に応募しました。
パソコン周辺機器が売れていた頃です。モノも売り、顧客に届け、設定する。「IT時代の電器屋さん」を目指しました。経営陣からは「無理だ」といわれましたが、36歳の時に認められました。諦めかけた時、当時の美川英二社長に、「3度の提案をけられて諦めるのか」と
叱咤 <業態を変える>
東京・三鷹と吉祥寺に店舗を出しました。私の地元で土地カンもあり、近所の人が来てくれるはず。しかし、客足は伸びず、パソコン関連用品などの在庫は増え続けました。秋葉原とは違い、出店地域にはITの集客力はなかったのです。業者が集積しない街に顧客は来ない。競合がなければ競争もなく、リピーターも生まれない。店を持つ難しさを実感しました。開店後、間もなく店舗を閉めました。
訪問サービス専門の会社から事業買収し、店舗を持たない業態に転換しました。草分けだったパソコンの設置やインターネットの設定を行うサービス業です。顧客は、量販店などに頭を下げて紹介してもらいました。軌道に乗るまで約10年かかりました。
母体の横河電機は成果主義に移行し始めていました。仕事ができる社員が業績を支え、成果に応じて報酬を決める。当然だと思っていました。
成果とは何か。考え直す出来事がありました。目立たないけど、実直な社員が「何でもやります」と頭を下げて大企業から仕事を取ってきた。作業は膨大で受注単価は安い。
何でこんな仕事を、と文句を言う社員もいましたが、仕事がなければ業績は上がらない。皆で毎日残業し、土日も交代で出勤し、力を合わせて受注をこなしました。大企業の信頼を得たためでしょう、2003年には創業以来初めて月次ベースで黒字転換しました。
私は学生時代はバレーボールの選手でした。病気でやめていた時期は、球拾いでした。でもチームのためには球拾いは大切です。レギュラーだけが偉いわけではない。仕事も同じです。こつこつ働く努力が信頼につながる。エリートだけでは成り立たないのです。
<安心して働く>
06年には人事制度を改革しました。競争を強いるだけでは、安心して働けない。成果給を廃止し、勤続年数やポジションに応じた年功制を採用しました。
時代には逆行しますが、チーム全員の協力を大切にしたい。06年度から12年度まで営業黒字が続いています。
起業した時を除けば仕事を選んだことはありません。一生懸命やればいい仕事ができる。社員が失敗を恐れずに挑戦し続ける環境を作ることが経営者の仕事だと思っています。(聞き手 中島千尋)
◇《メモ》 早大教育学部を卒業し、1982年に横河電機製作所(現横河電機)入社。96年に社内ベンチャー制度で「横河マルチメディア」を設立し、2001年に横河電機を退職した。キューアンドエーは12年に横河電機から独立。訪問や電話によるパソコンサポートの草分け的な企業で、運営は仙台、広島、福岡など全国6か所のオペレーションセンターで手がけている。本社は東京都渋谷区。13年3月期の売上高は97億円。