
玉田栄一 64 幸和製作所会長
<食べていくため>
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15歳の頃、父がサラリーマンを定年退職し、家族を食べさせるために乳母車の製造販売を始めました。
当時は高度成長期で子供がどんどん生まれており、需要があると考えたのです。長男の私は重要な働き手。学校に通いながら父の仕事を手伝いました。
作業場は大阪の自宅の敷地内にあったトタン屋根の小屋。父も私も未経験でしたが、パイプを買ってきて、ヨーロッパ製の乳母車をまねしてパイプ曲げ機を使って作りました。
問題は販売先です。大阪周辺の問屋さんはうちのような零細業者は相手にしてくれません。見本を担ぎ、私1人で連絡船と電車を乗り継いで四国まで行き、三輪車や乳母車を扱う育児用品店を1軒1軒回りました。
注文が入るごとにその店に製品を送ります。それでも作れるのは月に50~100台程度。家族で食べていくのが精いっぱいでした。
<乳母車を高齢者向けに>
愛媛県の乳母車店に売り込みに行った時のこと。おばあさんが乳母車を買っていました。店主に尋ねると、乳母車に赤ちゃんではなく、重りを積んで押して歩くお年寄りが時々いると。乳母車をつえ代わりにしているわけです。
意外な使い方にびっくりです。専用の歩行補助車を作れば、もっと使いやすくなるのでは。そう考え、さっそく試作品を作り、そのお店に持ち込みました。来店したお年寄りたちは「こっちの方が乳母車よりもいい」と。「これはいける」と思い、まず100台くらい作ってみました。
<「シルバーカー」に>
お年寄りに売り込むには、なじみの育児用品店だけでは限界がある。当時は福祉用品店などないですから、日用品店や金物屋など、高齢の方が来そうな店を開拓することにしました。
「老人車メーカーの幸和です!」と営業をかけるのですが、「老人車なんて聞いたことがない。訳の分からない物は扱えない」と、ほとんど相手にしてもらえませんでした。汚れた作業着姿で草履履きでしたから「汚いのが入ってきた」とも思われたでしょう。
商品名の「老人車」も印象が悪かった。そこで「杖車(つえぐるま)」とか「ウォーキングステッキ」とも名付けたが、ぱっとしない。最終的に「シルバーカー」にしました。
店頭でお客さんに感想を聞いて改良も加えました。かごにフタとひじ掛けをつけてイス代わりに座れるようにしたり、ブレーキをつけたり。
1996年に、重さが従来の半分で、電車やバスにも持ち込める小型タイプを開発しました。値段は1万6800円。それがよく売れて、1種類で市場全体の1割を占めたのです。2000年頃には念願の業界1位を達成しました。
「シルバーカーがあるから買い物や散歩に行ける」といった声を聞くことが何よりの喜びです。お年寄りを応援し続けたいと思います。(聞き手 寺島真弓)
◇《メモ》 1965年、堺市で乳母車の製造販売を始め、70年には国内初のシルバーカーを発売した。73年に阪南大卒。87年、「幸和製作所」として法人を設立。シルバーカーの国内市場占有率(シェア)は約50%でトップ。生産拠点は中国の自社工場で、台湾工場でも委託生産している。国内の従業員は約90人。