「地球を救わなきゃ!」から15年、今、多文化共生の視点で | 国際そのほか速

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「地球を救わなきゃ!」から15年、今、多文化共生の視点で 

尾崎嘉洋(おざき・よしひろ/一般財団法人北海道国際交流センター国際人材育成セクションリーダー)

 

  • 現在は函館で人材育成と就労支援に取り組む
  •   「気がついた人間ができることをする。その言葉を大切にして生きています」と話すのは、一般財団法人北海道国際交流センター国際人材育成セクションのリーダーを務める尾崎嘉洋(37歳)だ。

      商社で働く父親と専業主婦の母親、4歳上の姉と埼玉県久喜市で育った。地元の公立中学校を卒業後、栃木県の私立高校に進学。彼女とデートしたり、古着や音楽を楽しんだり。「将来のことなんか何も考えていなかった」と振り返る。

      両親から大学進学を促された尾崎は、「受験勉強をしなくてよいから」という理由で国学院大学経済学部経済ネットワーキング学科に内部進学する。しかし、授業が退屈で最初の半年はほとんど大学へ行かなかった。ライブハウスやクラブで朝まで騒ぎ、始発の電車で帰宅する生活に、「心身ともに疲れ果てていった」と話す。

    「地球って終わるの?…やばい!」

     

      大学1年の後期、講義で「地球環境報告」という書籍を読む機会があった。この本では、いまのまま環境破壊が続けば2040年に地球が終わると告げており、その内容に尾崎はうろたえた。「えっ、地球って終わるの? 続くんじゃないの?」と。なぜ急にそう思い立ったのか自身も理由がわからないのだが、「これはやばい。何とか地球を救わないといけない」と決断する。人生で初めて自らの命を懸けてなすべきことに出会った気がした。

      地球のために自分ができることを探すため、アルバイトで稼いだ資金を使い、尾崎は海外へ出る。1年目の終わりの春休みにはバックパックで西欧を回った。ぼったくりなどのトラブルにも見舞われたが、「自分の生きてきた日常ではない世界が目の前に存在する」ことを体感した。

      大学2年の夏休みには、チェコのオポチュノ村で、欧州やアジアの若者と共同生活をしながら村の公園整備を行った。英語がまったくわからなかった尾崎だが、趣味の音楽を通じてコミュニケーションをとり、2週間後のキャンプ最終日には、別れの寂しさで朝から号泣した。翌春にはオポチュノ村で出会った仲間のもとを訪ねながら中欧を回り、世界を目に焼き付けていった。

    プロのNGO職員になる修業で「人生甘くはない」

     

    • タイでの修業時代
    • 地元メディアでも活動が取り上げられた

        大学3年生の新学期が始まると、友人らが就職活動を始める。当時はまだ日本ではほとんど知られていなかったNGO(非政府組織)。そこで働きたいと尾崎はぼんやり考えていた。そんなとき、インドやネパールの森林伐採の影響でバングラデシュが大洪水に見舞われたことを知った。「何か自分にできることはないか」と情報をかき集めた。そして夏休みを利用してネパールで植林活動に参加した。

        植林活動が終わり、帰国まで時間があった。カトマンズ郊外のガンジス川の源流を歩いていると、ヒンズー式の葬儀がまさに行われるところだった。目の前の台に亡くなった方が横たえられ、火をつけるところだった。「怖い。どうなるんだろう」と尾崎は立ち止まった。そのときはじめてひとが焼ける匂いをかいだ。数時間後、台には遺骨と遺灰が残った。

        大学卒業後、数年間をプロのNGO職員になるための修業期間と位置づけ、2000年5月、タイのNGOでコーディネーターとして働くためタイのハジャイに向かった。ある事業では国立公園の森林保護のため、現地の住民とタッグを組み、原生林を不法伐採する森林マフィアと対峙(たいじ)した。その一方で、将来、森の主役になる子どもたちへの地域教育活動にも取り組んだ。尾崎らの地道な取り組みが実を結んだのは約2年後、地元の行政が動き、伐採がなくなった。プロジェクトは成功した。しかし、すぐに別の森で伐採が始まったことを聞き、尾崎は「人生甘くはないんだな」と思った。

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