2度の中退でふらふらしていた自分が支援者に | 国際そのほか速

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2度の中退でふらふらしていた自分が支援者に 連載開始にあたり、前回は、そもそも自分がどういう道のりを歩いてきたかを紹介した。今回から、若者就労支援の現場に立つ人たちの今を伝えていく。

 

菅野周平(すがの・しゅうへい/多摩若者サポートステーション総括コーディネーター)

 

  • リーダーシップセミナーでファシリテーターをつとめる菅野(本人提供)
  •   「自分の気持ちに、ありのままに生きてきたら、スーツを着て、電車に乗って、自宅と会社を往復するといった、子どものころに漠然と描いていた大人像とは、ずいぶんズレた人生になっていた」と笑いながら語るのは、多摩若者サポートステーション(東京都福生市)で総括コーディネーターを務める菅野周平(36歳)だ。

      エンジニアの父と専業主婦の母のもとで、特に不自由なく育ったという菅野は、中学校はサッカー部に所属しながら、ボーイスカウトを通じて地域活動へ積極的に参加する思春期を過ごした。将来のことは深く考えていなかったが、中学校のときに英語が得意だったことから私立高校の英語科に進学する。

      ところが、英語ができると思っていたけれど、進学した高校では帰国子女も多く、海外に行った経験がないのは自分だけ。「学校教育の英語が得意だっただけ」と少なからずショックを受けた。

    「大学に向いていない」という恩師に反発し進学も挫折

     

      この高校で、菅野は、忘れられない教師に出会う。入学してから卒業するまでずっと「お前は大学には向いてない。進学することも勧めない。自分の好きなことで生きろ」と言われ続けたことだ。しかし、思春期の多感な時期でもあったため、菅野は日本大学文理学部教育学科に進学するが明確な理由はなかった。一番近くにいた教師の言葉だったからこそ反発した結果だという。

      大学入学式前から始めたコンビニの深夜アルバイトが楽しく、昼夜逆転したことで入学式が終わる頃まで自宅で寝ていた。ほとんど授業に出ることはなく3年次に進級できず中退する。

      大学を中退した翌日、かの恩師から電話がかかってくる。「なっ、言った通りだろ。もう一回言うぞ、お前は自分の好きなことをやれ」と伝えられた。その後1年間はフリーターとして過ごしながら、進路を考えた。既に23歳になっており、手に職をと考え、臨床検査技師の専門学校に入学するも、2度目の中退をする。

    「それならウチで働いてみるか」

     

      専門学校を辞め、地元の福生駅近くをふらふら歩いていたとき、現在の所属先、NPO法人青少年自立援助センターの理事長に出会う。学生時代と同じように、その日も飲みに連れていってもらうことになる。専門学校を中退したことを伝えると、笑いながら「それならウチで働いてみるか」と声をかけられた。

      「ひきこもりなんて知らない。話を聞いても何の仕事なのかもわからない。その時点でもわからなかったが、とりあえず飛び込んでみることにした」と菅野は語る。実際、給与を含む諸条件を聞くこともなく、「二十歳そこそこの若造に、『俺はこう思うけれど、お前はどうだ』と意見を求めてくる。貪欲に学ぼうとする姿勢に感銘を受けた」と、その人柄だけで即決したという。2002年冬、菅野は25歳になっていた。

      NPO法人青少年自立援助センターは、ひきこもりなどの若者との共同生活を通じて、就労と生活の自立を支援する施設だ。なんの経験もない菅野に与えられた役割は、宿泊型で支援を受ける寮生(ほかに通所型支援もある)と一緒に活動、生活をすることだった。

    「寄り添う」はずが酔いつぶれてしまった!

     

      とにかく、右も左もわからない。目の前の若者たちはスタッフとして菅野を頼り、相談を寄せてくる。深夜まで話し込むことも日常茶飯事だ。「アルバイトの経験はあるが、就職活動を含め、企業人としての経験がまったくなかった。履歴書の書き方や面接での受け答え、どのように他の社員と人間関係を築いたらいいのかといった相談に答えることができずに苦しかった」と菅野は語る。

      先輩スタッフからも、よく怒られた。「言葉遣いや態度など、支援以前のことばかり」と懐かしそうに振り返る。イベントでBBQをした際、飲み過ぎてつぶれてしまい、寮生に介抱された。本来ならば叱責で済まないところも、同僚も寮生も温かく笑ってくれた。「一から丁寧に指導を受け、じっくり自分が成長するのを待ってくれた」と話す。

    働くうちに働きたくなってきた

     

      ひきこもり状態の若者を支援するという仕事について周囲の反応はさまざまだ。両親は大反対した。「それで生活ができるのか」と詰問された。それに対して菅野は明確に「さぁ」と答えた。わからないものはわからない。ただ、自分の気持ちがここで働きたいと言っている。おせっかいながらも、他者の人生に寄り添うことに生きがいすら感じていた。

      30代に差し掛かった頃、菅野はこの先の人生に不安を感じていた。「企業とは少し異なる世界にいる自分が、この先、仮に転職などをしたときに通じるのだろうか。積み重ねてきた知識や経験が他業種に転用可能なのか悩んだ」という。しかし、いまその不安はまったくない。

      入社して10余年が経(た)ち、役割も変化していく。NPO青少年自立援助センターの現場で若者に寄り添ってきたが、昨年度より同センターに所属しつつ、特に就労に特化した支援を行う多摩若者サポートステーションでマネジメントを担い始めた。企業訪問、行政対応、企画書作成など、菅野が考えていた企業人とあまり変わらない業務を経験することで、対人援助以外のスキルがしっかり身についてきた実感もある。

    「真面目なひきこもり」との出会い

     

    • 最近は主な仕事がマネジメントとなりパソコンに向かう時間が増えた

        入社してすぐに出会った、自分より4歳年上の男子寮生が、菅野には忘れられない存在だという。大学を中退して6年、ほぼ自宅から外出することがなかった寮生が、菅野が持っていた「ひきこもり=怠け者」という考えを一変させた。

        「一言でいえば、めちゃくちゃ真面目。生活をともにするなかで、こんなに素晴らしいひとが、なぜひきこもらなければならないのだろう、なぜ支援を必要としているのだろうと興味がわきました。」

        先のBBQで泥酔した菅野を介抱してくれたのは彼だった。そして「酔っ払って道端で寝てしまえるのは、それだけ自分を信じてくれるからだと思いました」という彼の言葉に、菅野は「あまりにも真面目過ぎて将来が心配になった」と話す。

        車中、助手席に座る彼に「とても優しい性格だし、介護とか向いているのではないか」と伝えたことがある。介護業界のことはまったくわからなかったが、当時は菅野なりに真剣に考えた結果としてのアドバイスだった。彼は「やってみます」と一言つぶやいた。その後すぐ、彼は特別養護老人ホームに就職、いまでは自らデイサービスの事業所を立ち上げる起業家でもある。

      背伸びするな、比べるな

       

        いまの仕事に迷いもあったが、若者と日々関わる仕事を丁寧にやっていきたいと菅野は考えている。

        「この仕事で特に重要なのは背伸びをせず、誰かと比べないこと。『支援をする』と硬くならず自然体で彼らと付き合っていくこと。ありのままの自分でいることが大切だということがわかった」と菅野。振り返ると、高校時代の恩師の言葉をそのまま体現しているかのようだ。「学校も中途半端で辞めてしまいましたが、漠然とでも行きたくないなと思ったから行かなかった。親には悪いと思っているし、深い考えはなかったかもしれないが、あれは自分の素直な気持ち、行動だったと思います。それが今につながっています」

       

        (次回は6月3日掲載予定です)