
受け止め方には個人差がある
- 橋本聖子日本スケート連盟会長を先頭にリンクをすべるフィギュアスケート選手たち(2012年12月、北海道札幌市で)
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セクハラ事件が様々に起きるなかで、こうした言動についての受け止め方が様々であることが明らかになってきました。
そうした中で「『いやよいやよ』も『いい』のうち」とか「男は誰もが性的な言動を喜ぶ」といった考え方が一般化できないことも理解されるようになってきました。
女性でもNOをはっきりと伝える人もいるし、できない人もいる。男性でもそうした言動を歓迎する人もいれば、そうではない人もいるということです。そこで、こうした個人差や多様性を前提にしながら、前回触れた感受性が特別に強い人などを除く「普通の人」基準が出されてきました。
つまり、セクハラについてはこれまでの俗説などに迷わされることなく、男女ともに理解のできる常識的な判断を下すことを基準としているということです。
「不快」を言えないことが問題
しかし、その一方でセクハラについては、往々にして「不快なのに不快と言えない」「不快と言わせない」力が暗黙に働くことも、大きな要素となります。いや、むしろそうした力が働くからセクハラなのだ、と言うのがセクハラの本質だと言ってもいいでしょう。
つまり、二人の関係や立場がそうしたYES、NOの対応に大きな影響を与えるということです。今回の事件でも会長職にある人とその組織メンバーの一選手ということになれば、圧力やプレッシャーが働かないと考えることが不自然でしょう。
今回の件には「言えない」「言わせない」力が働いていたかどうかは別としても、セクハラ規制については、こうした要素を重視して本人の受け止めとは別に、起きたことへの責任(起きるような環境を放置した責任)を使用者に求める規制の仕方をしています。
つまり、本人が不快であったかどうかとは別に、そうしたことが起きたこと、起きないように防止しなかったことへの企業の責任を厳しく問う仕組みになっています。
使用者責任を問う
男女雇用機会均等法の第11条は、「事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない」と定めています。
そこで、企業としては、セクハラを起こさない予防措置を取ることと、万が一起きてしまった場合にはそれを調査して、今後の再発防止の取り組みを行うと同時に、行為者を厳しく処分するということが必要になります。
これを今回の件に当てはめれば、スケート連盟は、セクハラが問題になった時点で、被害者である高橋選手の言い分はともかく、連盟の立場で調査して、問題があると判断したら、行為者である橋本会長を厳罰に処さなければならないということです。
法律規制の抜け穴
ところが今回の事件に対しては、大きな法律上の抜け穴が用意されています。セクハラの法規制の対象はあくまで「職場」であって、「議会」や「スポーツ団体」などは対象としていないということです。
都議会セクハラやじ事件でも、調査をしないことを議会がわざわざ決議して、強引な幕引きを図ることが行われました。あのケースでも世間の常識とはおよそかけ離れた対応ができたのは、議会にはセクハラの法規制が及ばないため、誰も責任を取る必要がなかったからです。
改めて考えてみると、今回の事件の舞台も職場ではありません。したがって、サラリーマンであれば当然無理チューがセクハラということになり懲戒対象にはなっても、議員さんやスケート連盟の会長ということになれば、必ずしも対象とはならないということです。
そして、対応は議会や連盟の任意の判断に任されていますので、団体自体の自浄能力に委ねられることになり、団体がアクションを起こさなければそれまでということになります。
問題は、サラリーマン世界では法規制によって、大方のセクハラの常識はできつつありますが、議会やスポーツ団体などには法規制が及ばないことから、まったく治外法権化していることです。
現実的には、あくまで被害者が団体に訴えるか(都議会では訴えたがダメだった)法的手段に訴える(不法行為や名誉棄損)ことがなければもみ消したり、問題にしないことも可能だということです。
(次回は9月23日ごろ掲載予定です)