みんな聞こえる人になると、手話はどうなる?

 

みんなが耳が聞こえる聴者になる日が近づいているのかもしれない。

補聴器の進歩、人工内耳装用手術によって、聴力は良くなり、わずかな難聴者のみになる可能性が高まってきているのかもしれない。

そうなったら手話はだれも使わなくなるのだろうか。手話は必要なくなるのだろうか。

手話はろう者の母語だと言って、手話の必要性を主張していくのだろうか。

 

「聴者―ろう者(あるいは聴覚障がい者)」 ではなく、「音声言語話者―手話言語話者」の関係で考えることは、両者が言語について考えることになり、人間の言語とは何か、どんな役割をもつものなのか。母語とは何か、などを考えることになるといいなあと思う。

 

手話は誰にとって必要なのか。

手話が一つの言語として、1つの種類の言語として、存在することになるべきなのか。

手話の話者が減って絶滅危惧言語となってしまうのだろうか。そうなってもいいのだろうか。

 

言語にはその言語の文化がある。その言語を使う人たちの集団があり、日本語、韓国語、英語、フランス語、など地域に根付く地域文化に根付く言語がある。

そして、それだけでなく、音声言語とは異なる別種類の言語としての視覚言語=手話がある。

 

手話は便利な言語として使われ続けるのではないだろうか。以前、製材所や修道院で音声言語が使えない環境で手話が役立ったように。

聞こえにくい人、話すことが困難な人、心を言葉で伝えにくい人などには有効な伝達手段であるだろうし、

もちろん、母語(第一言語)として身に着けて、自由自在にコミュニケーションすることができるようになる人もいるはずだ。

 

言語とは人間関係を築くために必要だ。方言でも手話でも、それを使っている人には独特な空気がある。

 

 

「言葉」から情報を得るだけではなく、その言葉を通して伝わってくる声や空気の震え、体温、匂いといった「ことば」を総合的に感じ取ることが、相手を理解するための重要な源となっているのです。(斎藤陽道 『つながることば学』NHK出版 2025)

 

 

母語は生まれた環境で身に付ける言語であるなら、手話を使う親の環境で母語として手話を身に付ける子供が出てくるだろう。あるいは第二言語として、手話を習得することで、バイリンガルになることで考え方や視野が広がる。人間教育として役立つ。

 

統一することや単一であることより、多文化、多言語社会のほうが生きやすい、柔軟性がある社会の方が生きやすい。生きやすい=幸せにつながると思う。

 

「手話を母語とする主な言語手段とする人たちが「手話者」であり、その人たちは「言語的マイノリティ」である。」と捉えれば、「障がい者か、ろう者か」ではない、言語の違いで「日本語話者か、手話者か」と考えることができる。

 

言語を基準として見ることで、聞こえない子どもを持った聞こえる親は、その子の母語を与えることを考えるだろうし、聞こえない親の元に生まれた聞こえる子供にはその子の母語の音声言語を与えると考えることができるのではないか。

 

想像してみよう、1880年に開かれたミラノ会議が今、日本で開かれたら・・・。また、手話禁止が主張されたら?

それはまちがっている?良くない?

 

手話禁止が、聾学校で手話を使わない、手話環境をろう児に与えないことを意味するなら、現在の日本の状況に近いのではないだろうか。

 

この手話使用を禁止することで何を目指していたのか。目的・目標は何であったのか。

もちろん、聞こえない子どもの幸せを誰もが願っていただろう。誰にとってもどんな時代でも幸せになることが人生の目標であろう。

 

では、聞こえない子の幸せは、聞こえる子になることであると考えることができるかもしれない。

具体的には、聞こえない子が音声言語(多数派言語)を使えるようになること、多数派(聴者)に所属すること。

つまり、普通の聞こえる子になることであろう。

 

しかし、聞こえない子どもが聞こえる子に完全に、完ぺきになれるだろうか。

中途半端であったらどうだろうか。

中途半端な聴力は聞こえないと同じではないか。

現在、問題なのは「聞こえる人になれない人」だろう。

 

十分に聞こえないと音声言語の日本語を母語として身に着けられない。

母語を持たない状態になってしまう

 

しかし、このような中途半端な聴力の子どもに手話を与えれば、人間の言語力は身に着く。

聴力は身につかなくても人間の言語能力はだれもが持っているので、身に着く。

聞こえないことが問題ではなく、コミュニケーションできないことが問題である。

 

 

日本語は高コンテクスト言語(=すべてを言葉で言い表さず、あいまいな言い方をしたり、空気を読む必要がある)であるが、手話は英語などと同様に低コンテクスト言語(すべてを細かいところまで手話で表す)であろう。

 

日本語では人と初対面の時、「私は~です」と名前を」お互いに伝え合うことから始める。その名前が会話中も会話後も頻繁に出てくる重要な要素となる。

しかし手話では、目の前の相手と話すので、あえて名前を伝え合う必要はない。

相手に話しかける時や相手を呼ぶときも名前ではなく、視線、指差し、肩をたたくなどをするから名前は必要としない。

 

 また、「この前会った~さんだけど・・・」と第三者に話をするとき、日本語では名前を入れる必要があるが、手話では「この前ここで会った、~な人」とか二人の間で共有できるその人の特徴を修飾語としてつけて話せばよいので、正確な名前はあまり必要ない。正確な本名ではなく、通称やあだ名のような聞き手との間でわかる単語(手話表現)でよい。

 

聴者にとっての名前の重要性、一方手話ではそれほど重要ではないことがカナダの小説家Frances Itaniの小説"Deafening"(村松潔訳『遠い音』)に描かれている。

主人公グローニア(聴覚障がい者、ろう者)に祖母(聴者)が話している場面から物語は始まる。

 

「お前の名前だよ」とマモが言った。「これは大切な言葉なんだ。名前が言えれば、自分がだれか世間に教えられるからね。」「グロー・・・」

「クローという音と似ているね・・・・・わたしの喉を見なさい。わたしの唇をよく見るんだよ」(p.7 )

 

聴者は名前や呼び名(肩書、所属先も含む)で自分が縛り付けられているのかも、と私は思う

医学の発達で将来、聞こえない人はいなくなるかもしれない。そうなったら、手話はろう児の母語ではなくなり、手話を身に着けるべき必要性のある人はいなくなる。

 

手話は消えていいのか?聴者であっても、ろう者であっても、手話という言葉の価値・意味はないということだろうか。

 

手話は音声言語ではない、別グループの視覚言語である。

手話は音声言語より、簡単に細かいところまで、わずかな感情まで動作や視線などの体全体で表現できる。

音声言語とは異なる、体を使う身体言語とでも言えるのではないだろうか。

 

私たちが言葉を身に着けるのは、お互いに自分を分かり、相手を分かろうとするためだろう。

その時、自分を表現するために身体言語の手話を使うと、音声言語以上に誰もが(子供から大人まで)楽しくコミュニケーションできるのではないかと思う。

なんだか、スポーツを一緒にやるときのようなイメージが私には浮かぶ。

 

映画『コーダ 愛の歌』のような手話を使ったコミュニケーションは言葉の魅力がある。

たとえば、方言の会話のように。

 

手話が聞こえない人の福祉分野のサポート手段としてではなく、手話が言語として魅力あるものとして広がっていくことがいいと私は思う。

 

手話を知ることは手話文化も知ることにつながり、それは異文化理解につながる。

異文化を体験することはおもしろい。

自分とは異なる他人を知ると、自分が変わる。自分にも自信が持て、他人にも寛容になれる。

 

そういう個人の集まりが寛容な社会を創り、異なる人々との「共生」社会になる。

 

1880年の「国際聾教育会議」ミラノ会議では、口話法教育が手話法教育より優位とされ、                  聾学校の手話使用を禁止して、効率よく音声言語を生徒に習得させようとした。

 

これは聾児が人間として自然に身に着ける母語を習得する権利を奪い、完璧な人間として扱われるべき個人の尊厳を奪うものであったと考えられる。

 

聴覚障がい者として口話法教育で音声言語を身に着けようとしても、ほとんどの聾児は聴者に近づくことは難しい。

母語を持てないと、多くの聾者が自分に自信を持てない、人間が生まれながらにして持つ価値や尊重されるべき存在としての地位を示す「尊厳」が持てない状況になったであろう。

 

しかし、聾学校の寄宿舎で手話が使われ続け、手話を母語として身に着けたDeaf(手話者)は音声言語(文字)とのバイリンガルになり、聴者社会にも参加するようになっていった。

 

現在は、手話を母語とする手話者のアイデンティティをもつ、完璧な人間としての尊厳を取り戻しつつある。

さらには2010年、「第21回世界ろう教育者会議」において、「ミラノ会議での手話禁止決議」の誤りを認め、撤回する宣言を出した。

 

言語は人間の尊厳と深く結びついている。

You must have dignity.(人は皆、尊厳を持たなければならない)。