19世紀文学におけるdeafの一考察
伊藤 泰子
1.はじめに
本稿では耳が聞こえない人を聾者やdeaf、そして聞こえる人を聴者と表すこととする。1864年に世界で初めて手話で授業を行う聾者のための「ギャロデット大学(Gallaudet University)」がワシントンD.C.に開校した。そして、ギャロデット大学出版のおかげでdeafに関する多くの出版物が世の中に現れるようになった。ギャロデット大学出版で編者(Trent Batson, Eugene Bergman[1])によるAngels and Outcasts(1985)と題する文学作品の中に聾者の登場人物が出てくる作品を集めたアンソロジーがギャロデット大学出版より出版された。
ギャロデット大学ホームページによると、Bergmanはポーランド生まれで、ドイツ軍のライフル銃の音が原因で聾者になった。彼はユダヤ人大虐殺(Holocaust)に巻き込まれたが生き残り、第二次世界大戦後の1947年にアメリカに移住した。その後、ギャロデット大学で英語学の博士号をとったという経歴がある。彼の経歴が文学作品の中に登場する聾者に関心を持たせたと考えられる。
Angels and Outcastsでは、19世紀の聴者作家は文学作品に登場する聾者を「天使」や「追放者」の存在として見ていると編者は述べている(Batson & Bergman 3)。言い換えると、聾者は耳が聞こえないために聴者社会に受け入れられず、聴者社会の外にいるので、聴者社会からの「追放者」という哀れむべき人であるということと、聴者社会の中にいないので社会に染まっていない純粋な「天使」のような人として描かれていることを意味する。
次にChristopher Krentz (2007)も聴者作家が描いた聾者についてWriting Deafness(2007)の中でとりあげている。Krentzは、人種間にcolor lineがあるように、聾者と聴者の間にはhearing lineと名付ける境界線があることを聴者作家は文学作品の中で示していると述べる(Krentz 16)。
Christopher Krentz(1967- )自身は聾者である。現在、バージニア大学のアメリカ文学と障害学(Deaf and Disability Studies)を担当する准教授である。聴力が9歳以降、次第に落ち彼は聾者になった。子どもの頃は言葉を聞いて理解することが難しく、テレビや映画も当時はまだ字幕がついていなかったので楽しむことができなかったために、本を読むことが多かった。最終的にバージニア大学の大学院でアメリカ文学を研究し始め、聾者の立場からアメリカ文学をみるという他の人とは異なる研究方法で文学作品を分析した。
筆者は聾者の登場する文学作品を見つけることに努力したが、ほとんど見つからなかった時に、上記の2冊の本をギャロデット大学のサイトで見つけることができた。聾者が登場する文学作品に関心を持つ研究者がほとんどいないと思われるが、ギャロデット大学のみが聾者の文化についての研究者が多く、Gallaudet University Archiveが聾者文化に関する資料が多くある。そこで、この2冊の本を基に19世紀の聴者作家が聾者をどのように描き、扱ったかを考察することにする。
2.Angels and Outcasts
Angels and Outcastsの巻末にギャロデット大学のDaniel Nascimentoがまとめた聾者が登場する文学作品の一覧が記載されている。その文献リストの最も古い作品を見ると、初めて聾者の男をモデルに書かれたDaniel Defoe(1661-1731)の小説The history of the life and adventures of Mr. Duncan Campbellが1720年にロンドンで出版されている。Defoeは1719年にRobinson Crusoe[2]を出版し、翌年に聾者を主人公にしたこの小説を出版した。これは、イギリスに実在した聾者の男が困難を乗り越えることで、同様に苦しんでいる人々を励ますことになったという話である。
次に古い文学作品は1843年にWilliam Fletcher(1794-1852)が書いた小説The Deaf and Dumb boyである。主人公が4歳の時、外科医の処置を受けて聴力を取り戻したというおとぎ話のような現実離れした話である。この話の中に当時の聾者が書いた手紙が挿入されていて、この物語は空想物語ではないことを作者はほのめかしている。
さらに、3番目には1893年にLewis Wallace(1827-1905)が二人の聾者の奴隷を従えている主人公のロマンスを描いた作品The prince of Indiaをニューヨークで出版した。Wallaceは南北戦争に参加した軍人であり、戦争後は政治家、そして作家であった。なお、彼が1880年に書いた小説Ben-Hur[3]はベストセラーになり、その後1959年に、映画化された。
しかし、編者(BatsonとBergman)はこれらの作品はとりあげなかった。なぜならこれらの作品の原本が入手できなかった可能性もあるが、現実の聾者について全く描かれていないことに起因すると推測される。
さて、編者(BatsonとBergman)は聾者が描かれている作品を探し出し、その中でも著名な4人の19世紀聴者作家(Alfred de Musset, Charles Dickens, Ivan Turgenev, Guy de Maupassant)の作品を取り上げた。彼らが初めて聾者が描かれた作品を探し出してまとめ、作品の中から聴者作家の聾者に対する見方を明らかにした。この本に取り上げられた4人の聴者作家は、聾者にとっての唯一の希望は、聞こえる子供を持つこと、あるいはどうにかして聞こえる人と結婚することだという同じ見方をしている作家として、編者は彼らの作品を取り上げたと述べている。
4人の聴者作家の中でGuy de MaupassantはAlfred de Mussetと同様にフランス人作家であるので、本稿ではミュッセ、ディケンズ、ツルゲーネフの作品を考察する。なお、ここに取り上げられた作家がフランス、イギリス、ロシアの作家であるが、この3人の作家によって19世紀文学作品の中の聾者に対する扱い方を一般化することは難しいと考えられる。しかし、聾者を登場させる作品が、筆者が調べる限りほとんどないために、聾者に対する一つの見方があったと推察することは可能だと筆者は考える。また、1760年からの百年間にヨーロッパで次々の聾学校が開設された[4]ことが聾者を登場させる作品を有名作家に書かせたと推察できる。はじめに、作品のあらすじをまとめ、次に聴者作家が聾者をどのように描き、扱ったかを考察する。
(1)Alfred de Musset, Pierre and Camille (1844)
Alfred de Musset(1810-1857)はフランスの詩人、劇作家、そして小説家であった。特に多くの散文的なコメディを書いた。このPierre et(=and) Camilleは短編小説の一つであった。彼は聾者について書く気はなかったと考えられる。第一に、ロマンティックな詩を書く詩人であった作家ミュッセは『ピエールとカミール』というタイトルが『ロミオとジュリエット』を意識しているように思えるからである。物語中に「パーティーで出会った若者がロミオとジュリエットのごとく、やってきて(Batson & Bergman 45)」という表現があることからみても、ピエールがカミールに『ロミオとジュリエット』のように結婚を申し込むラブストーリーとして描かれていると思われる。聴者のロマンスの物語はよくあるが、聾者のものは少ないので、ミュッセは聾者を使った独特なロマンスを書きたかったにすぎないと考えられる。
物語は「1760年」から始まる。ある貴族が結婚し、子どもが生まれたが、娘カミール(Camille)は耳が聞こえなかった。結婚相手として「教養のある陽気な良い気質の女性」を慎重に選んで結婚したにもかかわらず、聾の娘を持つことで家族は不幸になった。娘のために夫婦の間に突然、亀裂ができた。ミュッセは不幸な聾の娘と両親に対して哀れみを読者が感じるように書いている。聾者の存在を悪と見なす周りの聴者は精神的に不幸になるという見方が根底にある。たとえば、カミールの母は耳が聞こえるようになる方法を探し続けが、希望を捨てざるを得なかった。また、父は大変憂鬱になり、大半を一人で過ごすようになった。そして、父はオランダに仕事で行くと妻に告げた。彼は仕事を理由にしてこの状況から離れたいと思ったのだろうと妻は察した。また、近所の子どもたちはカミールを恐怖に思いながら彼女に近づいただけでなく、時には軽蔑するように彼女を避けた。母はそんな娘の悲しい状況を哀れみ、「カミールは生まれてこなかった方が良かったのだろう」と言った。これらのカミールの両親の描写は、娘の耳が聞こえないことが両親を不幸にしていること、言い換えると聾者の存在が悪であるとみなしていることを表す。そして、母は不幸に対して立ち向かおうとするが、父は不幸から逃げようとする父母間の違いを表す。
一方、聾者の存在は悪ではないという考えを叔父のみが示している。カミールの叔父Giraudは、カミールは不幸ではないと反論した。叔父の考え方は、この世のものは何でも好ましいものとしてみるというものだった。叔父は「カミールが上手く話せないことと、聞こえないことは確かに好ましいことではない。でも、家中の者をオペラの曲を歌っていらいらさせることもない。カミールはけんかっ早いこともないし、使用人を困らせることもない。私の妻とは違って、夫が咳をしても目を覚まさないだろう。あるいは、朝、先に起きて仕事に行くときでも目を覚まさないだろう。 (Batson & Bergman 15-16)」と叔父は言った。また、カミールは好きな人が近づいてくるのを感じることができ、まだ姿が見えなくても、その人を玄関まで出迎えに行くという、普通の人にはない能力を持っていた。これらの叔父の言葉は、著者ミュッセが聾者の存在の価値を認めていることを意味すると解釈できる。しかし、不幸に対して前向きな考え方を持つという教訓を聾者を使って読者に与えるためにミュッセが書いたにすぎないとも解釈できる。
聾者は悪の印として聴者社会から追放される。聴者の父親も同年代の子供たちもカミールが言葉を話せないために彼女を受け入れることができず、父親は逃避し、子供たちも彼女を仲間はずれにする。母親もパーティーからの帰宅途中、馬車が川の流れに呑まれ、カミールを助けるために犠牲となって亡くなった。その結果、カミールは聴者社会から追放される。カミールは「追放者(outcast)」になった。母の死後、彼女は喪服を着て聴者社会に入ろうとしないで孤立したoutcastとして過ごした。カミールは母の死後、叔父とパリで暮らしていたが、叔父が連れ出したパーティーでも孤立した存在で聴者社会に入ることはできないと感じた。
しかし、そんな可哀想な追放者を何とか聴者社会に入れてやろうとする救世主が叔父である。彼はカミールが悪の印ではなく、angelであると主張する。なぜなら、言葉によって人は社会悪を身につけるが、カミールは聞こえないために社会悪を身につけていないためである。カミールが聞こえないことで周囲の人に悪影響を与えるより心地良い静寂を与えるという点から、叔父は聾者カミールの存在を文明社会の人間ではない、angel(神に仕える霊的存在、天使のような人、優しい人)とみなしていると考えられる。
カミールはパーティーで出会ったこの聾者ピエールと結婚して子どもが生まれた。カミールは父親に孫に会いに来てくれと手紙を書いた。しかし、会いに行ってみると、孫は口がきけた。この物語では天使的存在である追放された、かわいそうな聾者カミールを救うヒーローが叔父であり、次には結婚相手の聾者ピエールが、そして、最終的にはカミールの子どもが救世主となる。話は聴者が聾者を助けるという英雄物語を創ることになり、助けられる側の聾者を、angelと設定したのであろう。ミュッセは作品の中でたとえ、現実とは異なるとしても善良な天使のような弱者として聾者を設定することで読者の関心を引くことができたのではないかと推測される。
この物語は、書き言葉を覚えることでカミールが聴者社会に所属できるようになり、追放者ではなくなったという結末と、さらには聞こえる子供が生まれたので、次の世代に悪は遺伝していないという結末で物語をハッピーエンドにした。この結末は聴者から見た結末である。つまり、聾者にとっての最大の不幸は言葉が話せないことであるから、文字を書いてコミュニケーションできると聴者社会に入ることができると考える聴者の見方から生まれた結末である。
カミールの父親はさらに不幸が起きることを予想して結婚に反対した。彼らの結婚には克服できない困難があった。聾者という欠陥のある女性と同じ不幸を持つ男性が一緒になることは問題であった。つまり、子どもが生まれるともう一人この世に不幸な人が生まれることになるからだった。実際に、アレキサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)は耳が聞こえないことを遺伝すると考え、聾者同士の結婚を禁止しようと主張し始めていた[5]。
ところで、作品中に実在の人物アベ・ド・レペ(ド・レペ神父1712-1789)や当時のフランスの聾者について書かれている部分がある。アベ・ド・レペ(Abbe de I’Epee)はパリのフォセ・サン・ヴィクトール街(the Rue des Fosses-Saint-Victor)で偶然、出会った聾者の二人の娘を教育することを申し出て、二人に読み書きを教えた。その後、聾児を教える教室を開設した(Batson & Bergman 12)。16世紀に、deaf-mutesに対して、スペインの僧侶が言葉ではない方法で考えを伝え合う方法を教えた。その方法がイタリア、イギリス、フランスに広がった。しかし、文明の進んだパリでさえ、deaf-mutesは人々からは分離されていると見られた。そして、神意の怒りを受けた(the wrath of Providence)者と見られた。また、話す能力を奪われて、考えることができなくなった人と見られた。お金持ちに生まれた聾者は修道院に入ることが、そして、貧しい聾者は自暴自棄になることが多かった。哀れというよりも悲惨な運命だった(Batson & Bergman 41)。実際にアベ・ド・レペは二人の聾者の娘を教育しようとした時、スペイン人のボネット(Juan Pablo Bonnet, 1579-1629)が書いた本『アルファベット文字の簡略化と聾唖に話すことを教える技術』(1620)を参考にして片手式指文字から「手話」を考案した[6]。また、手話による教育の創始者であるアベ・ド・レペは、聾者自身の言葉として手話を創ったと聾者側からは賞賛されているが、実は、手話は聴者とのコミュニケーションのために考案されたものであって、聾者自身のために考案されたものではないことがこの話からわかる。つまり、当時のアベ・ド・レペの考え方は、聴者側の考え方であり、聴者が聾者を助けたい意図を実現するための手話であった。
「私たちは2人ともmute(唖者)だね」というピエールとカミールの言葉からは自分たちをdeafより、話せない人muteであると考えていることがわかる。著者は聞こえないより話せないことを重視しているのは明らかである。ピエールはアベ・ド・レペの教え子で、手話と文字を使って聴者社会に参加しているので、聴者から見ればピエールは理想的な聾者である。さらに、カミールもピエールに指導されて手話と書き言葉でコミュニケーションできる、理想的な聾者になるように話は展開する。
この作品中にはアベ・ド・レペや現実の聾者についての実際の情報も書かれているが、ミュッセは現実の聾者の姿を描こうとしたのではなく、聾者を聴者社会から排除されているoutcastでありながら、 angelのような弱者として描き、その聾者を救う聴者の行いを称賛するファンタジーを書こうとしたと考えられる。聾者が書いた作品が出版されることはなかった19世紀に唯一、1848年に出版された聾者John Kittoが書いた自伝には、手話を聴者の音声言語と同様に使う彼自身には孤立感はないと述べている(Batson & Bergman 208)。現実は、聾者は自分自身をoutcastであるので可哀想な助けられるべき人間と思わなければならない状況ではなかったからである。フランスではアベ・ド・レペは貧しい生徒に無料で教育した。また、彼の学校は1791年に国立聾唖学校に認定された(エリクソン 110)。彼の聾者への貢献は聾者が手話で生活できる環境を作ることにつながり、聾者は劣等感を感じて聴者社会に所属しようと努力する必要がない状況だったと考えられる。
(2)Charles Dickens, Doctor Marigold (1865)
この物語は1900年に出版されたCharles Dickens(1812-1870)のChristmas Storiesに入っている。小池の『ディケンズ朗読短篇選集』(2006)によると、最初はDr. Marigold’s Prescriptionsというタイトルで1865年に週刊雑誌『一年じゅう』(Christmas numbers of all the year round magazine)のクリスマス号に掲載された。ディケンズは1858年から有料公開朗読を始めていて、その朗読台本としてDoctor Marigoldを朗読時間1時間ほどのものに仕上げた。初演は1866年4月10日にロンドンで行われた。その後、アメリカ公演でも人気を得た。(小池 183)。また、言葉を話せない聾者を登場させる作品を朗読台本にしたことは、音声言語について聴衆に考えさせるために聾者を使ったと考えられる。そして、マリゴールドの父親の名前がウィラム(Willum Marigold)だと表現していることも庶民の話し言葉で話しかけていることを表した。
マリゴールドはたたき売り(Cheap Jack)である。出産時に世話になった優しい医者への感謝の気持ちから、親は彼をDoctor Marigoldと名付けた。彼のたたき売りとしての口上はうまく、妻もうまい口上のおかげで嫁にした。二人にはソフィーという女の子が生まれたが、病気で死んでしまった。そして、妻も川に飛び込んで自殺した。結局、彼のうまい口上も妻との心のつながりは築けず、妻もマリゴールド自身も孤独であった。その後、彼はdeaf and dumbの女の子をソフィーと名付け、養女にした。彼はロンドンの聾唖学校に2年間、ソフィーを預けた。ところが、卒業後、ソフィーは戻ってきたが、ある日、若い聾者の男が現れた。ソフィーは彼と聾唖学校で知り合って、二人は結婚したいと思っていることがわかったので、彼は結婚を許した。その後、ソフィーは女の子を産み、5年後のクリスマスの日、その孫が彼を訪ねてきて「Grandfather!」と声を掛けた。「Ah, my God!! She can speak!」とマリゴールドは叫んだ。そして、最後の文であるthe happy and yet pitying tears fell rolling down my faceで物語は終わる。
言葉によって心を通わすことができなかったマリゴールドに対して、皮肉なことに、言葉を話さなくてもソフィーは手話で心を通わすことができた。最後の場面で孫と出会ったときにマリゴールドが感じた哀れみは、言葉を話し続けても相変わらず孤独である自分に対しての感情であるかもしれない。大多数の聴者は言葉を話すことを重要と考えているが、言葉は孤独感を癒すことはできないことにマリゴールドは気づいたからである。ディケンズが変わらず聾者に対して哀れみを持っていることも表すと筆者は解釈する。ソフィーは手話で心を通わすことができるようになったが、自分の子どもとも話すことができず、手話でやりとりすることを彼は見て、親子間にも存在する聴者と聾者間の壁を感じたために、そして、相変わらず、ソフィーはoutcastのままであったために、彼はソフィーに哀れみを感じたのであろうと解釈する。
ディケンズは聾者の手話を聴者の言語より劣っているとする見方に疑問を感じたのかもしれないと推察する。音声言語をあまりにも重要に考える見方には疑問を感じていることは明らかである。朗読しながら、聴者の音声言語について聾者の手話と対照させて考えているのであろう。聾者も話せるように訓練する口話法教育が盛んになってきている時代[7]に、音声言語を身につけることで聾者は聴者社会に所属できて、孤独感がなくなるという考え方を批判する意図がディケンズにあったか否かは明らかではない。
さらに、Christmas Storiesの中の作品であることは、聖書の物事の見方を描いている作品であり、イエス・キリストが聾者を治した奇蹟[8]同様に、神が聴者の孫を授ける奇蹟で結ばれている点は、宗教的意味合いのある作品であると言える。スレイター(2005)も多くのディケンズの作品が、復活や再生(改心)、救済などのモチーフに貫かれている宗教的意味合いがあることを指摘している(スレイター 203-204)。たとえば、ソフィーは耳が聞こえるようにはならなかったが、神によって救われ、耳が聞こえる子どもを授かったこと、また、病気で亡くなったマリゴールドの娘は、聾者ソフィーとして復活し、彼女はマリゴールドの心を癒し、彼を孤独から救ったことなどは宗教的意味合いが表れている。たしかに、ソフィーに教育を与えることが養父の生き甲斐となり、彼が慈悲深い善行をすることになった。聾者ソフィーは慈悲を受けるばかりでなく、マリゴールドに幸せを与える立場にもなることを描いて、ディケンズは孤独な人間の内面を読者に伝えているとみることができる。
ディケンズはこの物語の中で、聾者を社会からのoutcastという立場の人であることを前提としている。聾者ソフィーは聴者社会から排除されているが、angelのような純粋な存在で、マリゴールドの孤独感を癒してくれた。その代わりに、マリゴールドはソフィーに聾教育を受けさせるという善行を行い、その結果、善行のご褒美のように、神が聾者ではなく、聴者の孫を授けたという話の流れをディケンズは選んだと考えられる。
1880年にミラノで開かれた国際聾教育会議(International Congress for the Improvement of the condition of Deaf-Mutes)までは聾者たちの手話は聾学校を中心として聾者たちをつなぐ言語であった。従って、聾者間の結びつきは強く、聴者社会からのoutcastという感情はなかったとみられる。しかし、このミラノ会議では口話法教育の効率を考えて教育の場で手話を禁じることを聾教育関係者は決定した[9](Cleve & Crouch 108)。
(3)Ivan Turgenev, Mumu (1852)
Ivan Turgenev(1818-1883)は農奴制に反対していたので、このMuMuも使用人が女主人の言いなりにならなければいけない状況を批判的に描いているが、その使用人の一人が聾者ゲラーシムだったにすぎない(Batson & Bergman 84)。
モスクワの町はずれの家に未亡人が大勢の使用人に囲まれて暮らしていた。屋敷番のゲラーシム(Gerasim)は身長が2メートル近くもある大男で、生まれながらのdeaf and dumbだった。彼は村で兄弟とは離れて一人小さな小屋で暮らしていたが、村一番の働き手と言われて、その未亡人の女主人に雇われてモスクワに来た。周囲の人たちとは身振り手振りで意思を通じ合い、彼は言われたことはすべてきちんとやり遂げる几帳面なまじめな性格だった。彼は小部屋を与えられ、この部屋には錠がかかっていてそのカギを彼は腰につけて歩いていた。ツルゲーネフは聾者をまじめな従順な使用人として登場させ、さらには聴者とは分離した世界に生きている、他の使用人より下層の人間として描いている。自ら自分の部屋に鍵を掛けて孤独の世界に生きるoutcastの役目をゲラーシムは果たしている。
ある時、彼は水から上がれずにもがいている子犬を助け、自分の小屋で飼うことにした。彼はこの犬をムムーと呼んだ。ところが、ムムーが女主人になつかなかったので、女主人はムムーを屋敷から追い出すように命じた。使用人はムムーを動物市場で売ってきたが、その後、ムムーは戻ってきた。ゲラーシムは帰ってきたムムーを小屋に隠したが、なき声でムムーが戻ったことが女主人にわかってしまった。ゲラーシムはムムーを小舟に乗せて川を上り、途中でムムーの体に石を縛り付けて川に沈めた。ゲラーシムはその後、自分の村の以前の小屋に戻り、以前と変わらない働きものに戻った。
好きになった女性も女主人の指図に従ってあきらめさせられた。そんなときにムムーを川で助け、一緒に暮らすことになる。言葉を必要としない犬との心が通い合った幸せな生活が描かれているが、女主人に従わなければいけない立場のためにその幸福も自ら、こわすことになる。ムムーが女主人になつかなかったことは、女主人はモスクワの文明社会に染まっているがゲラーシムは染まっていない純粋さを象徴していることを意味するであろう。ゲラーシムは大男なのでangelのように描かれているとは言い難いが、心理面は純真で従順な善人として描かれている。
編者は「ゲラーシムが孤独であることと、孤独は精神的強さを必要とするという点以外には、耳が聞こえないことについての理解はない(Batson & Bergman 84)」と述べているが、ツルゲーネフが聾者は孤独な人間であるとみなしていたので、聾者を登場させただけにすぎないことになる。
1760年から46年間にヨーロッパでは19の聾学校が開校したが、ロシアの聾学校設立は1806年にサンクト・ペテルブルクのみで、モスクワには聾学校は19世紀には存在しなかった(エリクソン 128)。そのため、聾者への教育はヨーロッパとは異なり、広がっていなかったと考えられる。つまり、ツルゲーネフ自身も聾者について知識がなかったとみられるので、単に他人とコミュニケーションをとれない聾者を、孤独を象徴する人物として登場させたと言える。
佐藤が1977年に書いた『ツルゲーネフの生涯』の中に書かれているツルゲーネフの母は専制的な女地主の典型であった。農奴を虐待する母、夫の女遊びが一因で息子を鞭で打つ母、さらには自分の愛に応えない息子への憎しみから財産を残すまいとした母だった。それ故にツルゲーネフは農奴制に反対し、不遇な者や不幸な者に対して行動せずにはいられなかった。彼は哀れな人たちに惜しみなく同情をふりそそいだ。同情こそ彼の公正のあかしだった(佐藤 14-25)。また、彼は親交のあった作家ゴーゴリ(Nikolai V. Gogol, 1809-1852)への追悼文『ペテルブルクからの手紙』を発表したために皇帝の命令により禁固1ヶ月を言い渡された。その1852年に刑務所内でMuMuを書いた(佐藤 248)。
以上のツルゲーネフの経歴から考えると、ゲラーシムは刑務所に拘置されているツルゲーネフ自身である。ツルゲーネフの母親が、この作品の女主人に投影されている。聾者への同情は自分自身への同情であり、母親に犬を処分するように言われたならどうしても従わなければならなかった自分自身をゲラーシムが表していると考えられる。そして、ゲラーシムは母から愛されない孤独に黙って耐える聾者である必要があったと想像できる。
ところで、この物語を読んだ人は誰でもなぜ、ゲラーシムはムムーを川の中に落としたのかと疑問に思うであろう。ツルゲーネフはゲラーシムの世界は行動の世界であり、モスクワの社会は言葉の世界であると例えて、彼は言葉より行動を重要とする考え方を、ゲラーシムに犬を川に落とさせることで表したと編者はみている(Batson & Bergman 85)。ゲラーシムはモスクワに連れてこられて言葉の社会にまきこまれたが、最後に、彼自身がモスクワから田舎に戻ることで、以前の行動の社会へ戻ったことを意味することになると考える。言い換えると、ゲラーシムが言葉の社会からのoutcastに戻ったことを表す。
ツルゲーネフはこの物語を通してゲラーシムに同情していると思われる。そのため、ゲラーシムはその後、穏やかな暮らしをしたという結末にしたのであろう。物語の最後に女主人は亡くなったことはツルゲーネフの農奴制への批判が表れている箇所であると考えられる。
ツルゲーネフは聾者への教育について書いていない点はミュッセやディケンズの作品とは異なる。ツルゲーネフは物語の結末でゲラーシムが田舎に戻ることによってoutcastに戻ったことにしている点も特徴がある。テーマは農奴制批判であるために、ツルゲーネフはゲラーシムが手話や文字を覚えて聴者とコミュニケーションがとれるようになることを要求していない。また、女性の聾者ではなく、大男であることも異なる点である。聾者を可哀想な存在として救済の手をさしのべようとする話ではない点など、特徴がみられる。
3.Writing Deafness
19世紀のアメリカ人聴者達が聾者を神秘的な魅力的な人であると思い、興味をもったとKrentzは言う(Krentz 2)。たとえば、19世紀の終わりにはヘレン・ケラー(1880-1968)が注目された。なぜ、聴者作家も聾者を登場人物にするほど、聴者は聾者に興味を持ったのかを考えてみる。
1817年にアメリカ初の聾唖学校[10]が開校した後、州立の聾唖学校[11]が次々と設置された。聾唖学校の開校とともに、世の中に聾者がいることも一般市民にも知れ渡っていったに違いない。聾唖学校付近や世間で手話を使う聾者を見かけた、あるいは、聾者に接した聴者は、聾者と十分にコミュニケーションできないために、聾者に対して自分勝手な画一的なイメージを持ってしまったかもしれない。聴者は聾者と話し合うことができないために、理解できない聾者を「神秘的な魅力的な人」とイメージすることになったと考えられる。
また、19世紀のアメリカの聾唖学校で教育に携わったのが、アベ・ド・レペと同様に牧師たちであった。彼らの教育の目的は聾者に神の教えを伝えることであった。そのためには聾者が話せるように訓練する必要はなく、手話を教育の手段として宗教教育をしたと聾教育史に詳しい上野(1990)は述べている(上野 148)。当時の聾者が牧師たちから手話で神の教えを聞いた様子も聾者を神秘的に見せたであろうと推測される。
Writing Deafnessによれば、1817年にアメリカ初の聾唖学校が創立されたことを感謝の意を表す会を1850年、聾者と聴者が共に開催した。その会には400人以上の聾者が集まり、ほとんどの聾者が英語で事前に文章を書いておき、聴者がそれを読み上げた。この場には聴者作家が描いているような聾者の姿(社会から排除された、劣っている可哀想な人というイメージ)は実在しなかった。英語の文字が読み(黙読)書きでき、手話でコミュニケーションできる聾者が存在した (Krentz 148)。なお、アメリカの聾学校では1849年のノース・カロライナ聾唖学校のThe Deaf Muteという名前の学校新聞から始まり、19世紀末までに50の学校新聞が発行された(Creve & Crouch 98)。聾者が読み書きできる一つの要因として、それぞれの聾学校が学校新聞を作り、印刷して配布していたことが考えられる。聴者作家が社会から排除された孤独な可哀想な聾者を救う物語を書こうとする時に、手話と英語の読み書きができ、大学進学までする現実の聾者を登場させることはできなかったであろう。
次にKrentzがhearing lineが描かれている作品として取り上げたメルヴィルとマーク・トウェインの作品を次に紹介する。
(1)Herman Melville
Writing Deafness の中で取り上げられたHerman Melville(1819-1891)のFragments from a Writing Desk (1839)は聞こえること(聴者)と聞こえないこと(聾者)の衝突を描いている。まずは話を要約する。ある若い聴者は神に仕える人であるが、ロマンスや冒険話の本を読みふけっている人でもあった。彼は自分自身も恋愛を体験したいと思っていたところ、神秘的な女性が彼の足元にメモを落とした。メモには彼女の使用人の後についてくるように指示されていた。従って行くと森の中の屋敷に入り、そこにはその女性がいて、彼は女性に話しかけたが、彼女は何も答えなかった。彼は何か恐ろしい気持ちになった。彼は「彼女はdumb! 彼女はdumb and deafだ」と言いながら気も狂わんばかりになって彼女から逃げた。
この話では、彼にとって女性が魅力の対象から急に恐怖を感じる対象になった。彼はhearing lineを越えて聾者の世界に入ると恐怖を感じて、聴者の世界に戻ろうとする。何も話さない女性が神秘的に見えたが、聾者であると知った女性に対しては、神に仕える人格のできた男でも恐怖を感じた。彼は逃げて、言葉と音がある世界に戻ろうとする。なぜなら、言葉を使えないことで聾者の世界に追放されてしまうことに聴者は恐怖を感じるからである。最後に、彼女を自分とは異なる聾者だと馬鹿にする言葉を吐いて、聴者社会に戻ろうとする。
二人の間にhearing lineという境界線があることを聴者の若者は知って、彼はその境界線を乗り越えることはできない。あるいは、彼は乗り越えようとは思わない。その境界線は彼らの関係を妨げた。また、女性の住む場所が森の中という設定は、聾者は聴者とは異なる世界に住む人であることを意味する。hearing lineによって聾者と聴者の世界が区切られていることをメルヴィルは暗示している。森という自然に住む聾者に聴者は魅了されたが、聴者は森には住むことができないことをも象徴していると考えられる。
さらに言えば、聾者は聴者社会に所属しようと努力できるかもしれないが、反対に聴者は森にたとえられる聾者の世界に所属することはできない。そのため、聾者の聴者社会への同化が必要であることを表すとも推察される。実際、南北戦争後、口話法の聾学校[12]が誕生し、口話法教育が進められることになったことは、聾者の聴者社会への同化を促進することになった。なぜなら、口話法教育は聾者が聴者と話せるように発音訓練を受け、聾者が聴者社会に同化することを目的に実施されたと見ることができるからである。一方、口話法教育を推進することは、聴者が手話を覚えて聾者社会に入ることを否定し、聴者の聾者社会への同化はあり得ないことを意味する。
聴者は言葉が聞こえない・話せないことを恐怖に思うが、聾者は恐怖に思っていない。その違いに、聴者は聾者の優れている点を知る。つまり、聞こえない・話せない状況に恐怖を感じない聾者は聴者にとって偉大な存在に感じられる。メルヴィルは聴者が音声言語(声に出す言葉)にあまりにも依存している愚かさを描いているとKrentzも述べている(Krentz 125)。
メルヴィルは、この物語の聾の女性をoutcast でありながらangelとして初めは描いているが、最後は聾の女性はangelではない。恐怖を与える存在になっている。救世主となる聴者によって聾者が救われる物語ではなく、聾者は恐怖を与える存在で、聴者が逃げ出すという結末になっている。本稿で見てきた今までの作品とはこれらの点が異なる。
また、聾者を可哀想な人とみる見方もこの物語には見られない。たとえば、白人であることは黒人がいるから白人と言える。同様に、聴者にとっては聾者の存在があるから聴者であることが認識できる。聴者の作家は、聴者自身を映す鏡として聾者の登場人物を使い、聴者自身の恐怖や願望など、心の内面を知る手段として使った。たとえば、可哀想な不幸な聾者を描くことで読者自身の幸せを感じさせた。しかし、メルヴィルの物語では、聾者と聴者の衝突の結果、聴者の内面の弱さを聴者が逃げ出すことで表して、聴者の心の内面を示した。
(2)Mark Twain
Mark Twain(1835-1910)の Adventures of Huckleberry Finn(1885)の第23章の最後に、黒人ジムの娘(‘Lizabeth)が4歳頃、猩紅熱のために聴力を失った時の話をジムがハックにする場面がある。ジムは、病後に娘が聴力を失ったことに気づかず「ドアを閉めろ」と命じたが、娘は薄笑いをしながらジムの方を見ているだけで、指図に従わなかった。そのため、ジムは腹が立ち、娘を殴った。しかし、その後、風が吹いてきてそのドアが大きな音を立てて閉まったが、娘は少しも反応しなかった。そこでジムは娘の後ろから大きな声で叫んだが娘は反応しなかった。ジムはその時初めて娘が聞こえないことに気づいた。彼は可哀想な娘にひどいことをしてしまったと後悔した。そして、生きている限り、娘に償っていくと話している。
Krentzによれば、このエピソードはトウェイン自身の子ども時代の友達Tom Nashが猩紅熱にかかり、15歳で耳が聞こえなくなった実話を基に書いている。この場面はジムが娘を思いやる気持ちのある黒人であることをハックと読者の両方に示した。また、ハックとジムの人種の違いをさらに後退させるエピソードだったとKrentzは解説している(Krentz 117-118)。トウェインは、ジムの娘のように聴力を失うと他人に依存しなければならない受け身的な存在になる事実を、人格やアイデンティティに影響を与える要因として使っていると考えられる。聞こえることが優位なことと思うことは、ジムの娘に対する感情のように、聾者に対して聴者を慈悲深くさせる。聴力を失った娘を思うジムの人格は聴者として慈悲深くなり、立場は娘から頼られる優位な存在になった。ジムはハックとは人種が異なるにもかかわらず、娘に対しては共に聴者という同じ立場になった。これがKrentzの言う「ハックとジムの人種の違いをさらに後退させる」という意味であると筆者は考える。
Adventures of Huckleberry Finnの25章から26章に、王様と、聾者のふりをする公爵を演じる二人のペテン師の話がある。王様が聾者の公爵に手話をまねした身振り手振りをしながら大声で話しかけた。すると、聾者の公爵もいろいろな身振り手振りと「グーグー」と声を出しながら、口のきけない赤ん坊のように応対する。このようにペテン師の二人は善人を演じたという場面である。聾者のまねをすることを話に取り入れたトウェインは聾者を馬鹿にしているわけではない。聾者を笑いの対象にすることで、読者が聾者に対して親しみを持つことをねらっていると考える。トウェイン自身も聴力を失うと聴者社会から排除される恐怖を知っていたに違いないが、彼は聾者達が手話で楽しそうに会話しているのを見ると魅力を感じたであろう。Krentzによると、トウェインは1902年にヘレン・ケラーに会って、さらに聾者の魅力を感じたと書かれている(Krentz 181)。彼は手話が魅力的な言語であると認めているようだが、笑いを描くためには手話を登場人物(ニセの聾者の公爵)に使わせなかったのであろう。
登場人物の公爵が本物の聾者ではないので、読者も聴者が身振り手振りで聾者のまねをする姿を想像して楽しむことができる。また、聾者が善人と思われやすいことを前提としてトウェインが物語を書いていることがわかる。トウェインも聾者をangelとして描いている。聾者は善人であるからペテン師とは思われないという前提も推測される。
トウェインは聾者と聴者のつながりを、笑いによって作ろうとした。たとえば、聾者の愚かにみえる点が笑えると同時に親しみが持てる。聴者に聾者に対して親しみを持たせることで、聾者を聴者の世界に入れようとしている。実際、私たちは、聞こえにくい人に対して大声で話しかけている場面や、大声で話す聞こえない人たち[13]は滑稽に思うことがある。また、聾者が聞こえるかのようにどんなに振る舞おうとしても、大人のまねをしている子どもが大人になれないように、聾者は聴者にはなることは不可能である点が悲しいが、笑いの種になる。聴者が聾者のふりをしてhearing lineを乗り越えようとすると、ばかげていると思え、逆に聾者が聴者のように見せようとすると、こちらも愚かで子どもっぽく、ばかげていると思えるであろう。笑いを通して聾者と聴者のつながりを作り、聾者をoutcastから聴者社会の一員にすることをめざすことは可能かもしれない。
Krentzも述べるように、トウェインのように聾者を笑いの種として登場させることは、19世紀のアメリカ社会に聾者を上手く登場させるのに役立ったと考えられる(Krentz 199 )。つまり、耳が聞こえないことや聾者が話の中でユーモラスに扱われているので、聴者の読者は聾者に恐怖感を持つことはなく、むしろ聾者に親しみを感じることになったからである。hearing lineは消えることはないだろうが、聾者に対して聴者は神秘的な魅力的な、そして親しみが持てるイメージを持つようになる。聾者を悪の印として見る見方は変わり、聾者は聴者から好ましいイメージを与えられることになる。
4.まとめ
19世紀のヨーロッパ、アメリカでは宗教を伝道することを第一目的として聾学校が多く開校された。聾者に手話を使って神の言葉を教え、聾者に信仰を持たせることに関心が寄せられた。聾学校に集まる聾者たちへ聴者も関心を持った。また、19世紀半ば頃からは口話法指導の聾学校が開校したこと、ギャロデット大学ができたことも影響して、聴者は聾者に関心を持ったに違いない。また、聾者団体も1854年にNew England Gallaudet Association of Deaf-Mutesが設立して以来、数々の聾者団体が生まれ、National Association of the Deaf(NAD)が1880年に設立された(Cleve & Crouch 87, 93)。しかし、聾学校や聾者について、聾者が聴者に広く知らせることはなかったので、聴者は聴者本位の聾者のイメージを持った。
聾者が登場する19世紀の文学作品では、聴者作家は聾者の実際の姿を描こうとしていない。聴者の読者を物語に引き込むための手段として、想像の聾者像を描いて聴者から見た理想的な聾者として描いている。そのため、outcastであるangelとしての聾者、あるいはhearing lineを乗り越えられない聾者が登場している。聴者とコミュニケーションできないために聴者社会に所属できない、欠陥のある劣った聾者を支援することを神は聴者に求めていると描いている。聾者は聴者が助けるべき対象者となり、聾者を支援する聴者自身が善人となる物語の展開になった。さらには聾者の登場人物を使って、自分たち聴者は聾者に比べると幸せな人たちだと描いた。そして、その可哀想な聾者たちに教育を与えようとする聴者たちの行いをたたえた。一方、メルヴィルは、聾者は聴者にとって恐怖を感じる存在としても描いた。トウェインは聾者を笑いの種としても描いた。聴者作家は現実の聾者の姿を描こうとするのではなく、聴者自身を映す鏡として聾者の登場人物を利用した。
また、聴者作家は手話の会話を、音声言語やコミュニケーションについて読者に考えさせる材料として提示している。聴者作家たちは実際の手話について十分な知識があるわけではないが、聾者が使う手話が心を通わせる手段となると理解する。しかし、手話を音声言語と同等に考えるわけではない。ディケンズもミュッセも音声言語を使う聴者側から手話を使う聾者に対して、哀れみや同情を表している反面、音声言語の危うさや手話が聾者同士の心を通わせることを表している。
実は、マサチューセッツ州南東部のマーサズ・ヴィンヤード島には遺伝性の聴覚障害者が多く暮らし、彼らは手話で生活していた。その生活は1690年から250年間続いた。ヴィンヤード島では、聴者も島の手話を覚え、実生活の場で手話を用いた。一つの島ではあるが、手話を使う聾者社会が存在していた。人類学者であるノーラ・エレン・グロース(Nora Ellen Groce)は島の様子をEveryone Here Spoke Sign Language(1985)にまとめている。
また、聾者の芸術家John Carlinは1850年代に聾者のための大学の創設を提案した。彼の案がギャロデット大学創設につながった(Cleve & Crouch 77)。ギャロデット大学は聾者自身の声から創設されたことになる。さらには、John J. Flournoyは1855年に聾者の州(Deaf State)を創設することを提案した(Cleve & Crouch 60-61)。Deaf Stateは実現することはなかったが、聴者社会に所属できるように、聾者が救いの手を聴者に願っている様子は見られない。hearing lineは存在するが、聾者にとってのhearing lineは越えなければならない境界線ではなかったと言える。聴者作家は、聾者はhearing lineを乗り越えて聴者社会に所属したいと願っていると考えていたにもかかわらず、現実の聾者の姿は聴者作家が描いた聾者とは異なっていた。
参考文献
Batson, Trent & Bergman, Eugene, editors (1985), Angels and Outcasts; An Anthology of Deaf Characters in Literature, third edition, Gallaudet University Press Washington, D.C.
Carbin, Clifton F. (1996), Deaf Heritage in Canada, MacGraw-Hill Ryerson Limited, Canada.
Defoe, D. (1720), The History of the Life and Adventures of Mr. Duncan Campbell. London: W.Meers.
The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe (April, 1719)
The Further Adventures of Robinson Crusoe (August, 1719)
Cleve, John Vickrey Van & Crouch, Barry A.(1989), A Place of Their Own, Gallaudet University Press, Washington, D.C..
Dickens, C. (1900), Doctor Marigold. In Works of Charles Dickens: Vol.7. Christmas Stories. Merrill & Baker, London.
Fletcher, C.W. (1843), The Deaf and Dumb boy: a Tale, with Some Accounts of the Mode of Educating the Deaf and Dumb. London: J. W. Parker.
Groce, Nora (1985), Everyone Here Spoke Sign Language: Hereditary deafness on Martha’s Vineyard, Harvard University Press, Cambridge.
Kitto, John (1848), The Lost Senses, Edinburgh: William Oliphant. London.
Krentz, Christopher (2007), Writing Deafness, the University of North Carolina Press
Melville, Herman (1839) “Fragments from a Writing Desk, No.2” The Writings of Herman Melville, Vol.9: The Piazza Tales and Other Prose Pieces 1839-1860. Evanston, Ill, Northwestern University Press, 1987.197-204.
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Slater, Michael (1999), An Intelligent Person’s Guide to Dickens, Gerald Duckworth & Co. Ltd., London.
Turgenev, Ivan, (1904), Mumu, In I.F. Hapgood (Trans.), the Novels and Stories of Ivan Turgeneieff:
Vol. XI. Charles Scribner’s Sons, New York.
Twain, Mark (1995), Adventures of Huckleberry Finn [1885] Boston: Bedford.
Wallace, L. (1893), the Prince of India. New York: Harper & Brothers.
上野益雄(1990)「19世紀アメリカ聾教育史における宗教」『心身障害学研究』14(2): 27-38.
小池滋(2006)『ディケンズ朗読短篇選集』北星堂書店
佐藤清郎(1977)『ツルゲーネフの生涯』筑摩書房
ペール・エリクソン著、中野善達・松藤みどり訳(2003)『聾の人びとの歴史』明石書店
マイケル・スレイター著、佐々木徹訳(2005)『ディケンズの遺産 人間と作品の全体像』原書房
参考資料.
「アメリカの聾者史年表」http://www.geocities.jp/asldeafworld/History/america.html/
2010年10月22日取得
要旨
19世紀の聴者作家は、聾者の登場人物を聞こえないために社会に受け入れられない可哀想な人(outcast)として、そして、聴者社会の外に存在するので社会悪を吸収していない天使のような純粋な人(angel)として描いているとAngels and Outcasts(1985)では述べられている。Krentzは、人種間にcolor lineがあるように、聾者と聴者の間にはhearing lineと名付ける境界線があり、聾者は聴者社会には存在できないとWriting Deafness(2007)で述べている。
本稿では上記の2冊を基にして、ミュッセ、ディケンズ、ツルゲーネフ、メルヴィル、トウェインの作品を聾者に関する描き方や扱い方の点から考察した。
聾者が登場する19世紀の文学作品では、聴者作家は聾者の実際の姿を描こうとしていない。聴者の読者を物語に引き込むための手段として、想像の聾者像を描いて聴者から見た理想的な聾者として描いている。そのため、outcastであるangelとしての聾者、あるいはhearing lineを乗り越えられない聾者が登場している。聾者は聴者とコミュニケーションできないために聴者社会に所属できない、欠陥のあるかわいそうな人なので、彼らを支援することを神は求めていると描いている。また、聴者作家は手話の会話を、音声言語やコミュニケーションについて読者に考えさせる材料として提示している。
キーワード: 聾者 聴者 outcast, angel, hearing line
[1] Trent Batson is Director of Academic Technology at Gallaudet University. Eugene Bergman, former Associate professor of English at Gallaudet University, is retired in 1996.
[2] The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe(April,1719)
The Further Adventures of Robinson Crusoe(August,1719)
[3] Ben-Hur: A Tale of the Christ (1880) Harper & Brothers.
[4] スコットランドから始まり、フランス、ロンドン、ロシアなどの33カ所に聾学校が開設された(エリクソン 128-129)。
[5] ベルは1883 年にthe American Academy of Sciencesの会議で、1884年 the Conference of Principals of American Schools for the deafの場で聾者同士の結婚によって聾者数が増えるので聾者と聴者の結婚を勧めると主張した(Cleve & Crouch 146)。
[6]聾者を教えるにあたってボネットは修道士たちによって創り出された指文字を採択した。アベ・ド・レペはボネットの創ったアルファベット文字の片手式指文字を利用し、さらに文法の機能もある程度持った手話を考案した(エリクソン 109)。
[7] 1778年、ドイツに初の口話法教育の聾学校が開校し、その後、19世紀半ばまでに多くのヨーロッパの聾学校で口話法教育は支持された。
[8] イザヤ書(35.5)「神が来ると目の見えない人の目は見えるようになり、耳の聞こえない人の耳は聞こえるようになった。」
[9] 手話使用を禁じることで口話法の習得が進むと考えた。そのため、手話は寄宿舎のみで隠れて学生が使うことになる。手話は潜在的に保持されることになる(Carbin 320)。
[10] Connecticut Asylum for the Education and Instruction of Deaf and Dumb Personsがハートフォードで4月15日開校(1895年にアメリカ聾学校に改名)。
[11] 1818年、ニューヨーク州立聾唖学校、1820年、ペンシルベニア州立聾唖学校、1829年オハイオ州立聾唖学校開校。
[12] 1867年、レキシントン聾学校、ニューヨーク市でアメリカ初の口話法指導の学校として開校。
[13]自分の声が聞こえないと、人はどれくらいの声量で話してよいかわからず、声が大きくなる傾向がある