エピローグ
高野は空を見上げ、手のひらで風を感じた。目の前には見慣れぬ大地が広がり、山々が遠くまで続いている。その光景はどこか新しく、けれど、何かしらの懐かしさを感じさせた。
「懐かしいな……」
その言葉が、ふと口をついて出た。記憶の中には、あの頃、ただ普通に過ごしていた日々が浮かぶ。街を歩いていると、ふとした瞬間に感じた風、目にした空の色、交わした何気ない会話。それらすべてが、今ではどこか遠い場所に感じられる。
「こんなことになるなんて、思ってもみなかった。」
高野は軽く笑みを浮かべた。あの時、あんなにも無邪気に過ごしていた日々が、今の自分を作り上げているとは思ってもいなかった。目の前に広がる新しい世界がどんなに不安定で混沌としていても、その記憶の中の穏やかで確かなものが、心を支えてくれている気がした。
「でも、きっと……」
空を見上げ、静かに思った。過去のすべての出来事が繋がり、今の自分がある。遠くに感じても、あの頃の温かさや、感じたことの一つ一つが、決して失われることはない。どんなに遠く離れても、それらは自分の中に深く刻まれている。
高野は静かに歩き出した。新たな道を歩むその足音が、ふと耳に残る――あの街のどこかで聞こえていた、同じように歩む人々の足音のように。
「いつか、またあの頃の空気を感じることができるだろうか。」
そう思いながら、足を進めることにした。未来は見えなくても、少なくとも今、進むべき一歩を踏み出したことだけは確かだ。
そして、心の中で静かに呟いた。
「ありがとう、あの日々。」
第1話:迷走する日々
1999年、初春。高野は大学を卒業し、まだ何も決まっていない自分の未来に苛立ちを覚えながら、日々を過ごしていた。周囲では就職活動に必死に取り組む同級生たちの話があちこちから聞こえ、それを横目に見ながら、高野は内心で彼らを軽蔑していた。
「また100社落ちたとか言ってるよ、あいつ」
「そんなに必死になってどうするんだろうね」
そんな風に、他人の苦労を他人事のように思いながら、彼は「就職活動」なるものに取り組んでいるふりをしていた。
大手企業の説明会に参加し、一次面接を受けることはあったが、二次面接に進んでも興味を持てなかった。だいたい、どんな会社でも構わない。面接に行って、なんとなく受け答えをし、無理にでも「興味があります」と言っておけば、その場はうまくいく。だが、内心では次のステップに進むことなど考えていなかった。
「まあ、行かなくてもいいか。面接はもう面倒だし」
結局、高野は二次面接の約束をドタキャンし、そのまま就職活動を打ち切った。どこかで、あの面接を通過しても、きっとつまらない仕事に従事するだけだろうと予感していたから、どうせなら行動しないほうが楽だとさえ思っていた。
そのまま、大学を卒業し、結局どこにも就職しなかった。社会人としての一歩を踏み出すことなく、気づけばもう二年が経っていた。
アルバイトをしていたレストランでは、若いスタッフが次々に入ってきて、そして去っていった。最初は同じ年齢のスタッフと一緒に働いていたが、そのうち、後輩がどんどん増えていき、気づけば自分が一番年上のアルバイトになっていた。
「もう、何やってんだろうな、俺…」
そんな思いが頭をよぎることが増えていった。新しい新人が入るたびに、ちょっとずつ取り残されていく感覚が強まる。社会から、時代から、遠ざけられているような気がしてならなかった。
ある日、シフトを終えた高野は、店の裏手で煙草を吸いながら空を見上げた。やりたくてやったわけではない、ただ「なんとなく」でここまで来てしまった。たまに、若いアルバイトの顔を見ては、ちょっとした焦燥感に駆られる。
「お前らは、どうせすぐに就職していくんだろうな…」
でも、どうしてもその先にある未来に踏み出す気力が湧かなかった。
時間は流れ、やがて周囲の人々が新たなステージへと進んでいく。友達はみんな、社会人としてしっかりとした道を歩んでいるように見えた。そんな中、いまだにアルバイトを続けている自分がいる。どこかで自分を誤魔化し、現実から目を背ける日々。アルバイト先でも、新しい若い人たちが入ってくるたびに、ちょっとした焦りと共に、自分がどんどん遅れを取っているような気がしてくる。
ある晩、同じように何も変わらぬ生活を送る友人たちと居酒屋で飲んでいた。彼らも、どこかで自分と似たような感情を抱えているようだったが、言うことは立派だ。
「俺、もうすぐ音楽で食べていけるんじゃないかと思ってるんだよね」
「絵を描くのって、やっぱり面白いよな。そろそろ仕事になるかもしれないし」
そんな話をしているうちに、高野はその場が苦痛になってきた。
音楽を作らないミュージシャン。絵を描かない画家。彼らの言葉が空虚で、ただ耳に残るだけだった。何もしていないのに、どうしてそんなに自信満々でいられるのだろう。
高野は無言でビールを飲み干す。
その夜、家に帰った高野は、財布の中を見て愕然とした。アルバイト代でちょっとした余裕を持とうとしていたが、ついパチンコでそのほとんどを使い果たしてしまったからだ。
「金がほしい…」
「なんで、いつもこうなんだ…」
そう呟きながら、ソファに横になり、天井を見つめる。何をしても、何を考えても、何も変わらない。未来を切り開こうとする気力が、どこかに消えてしまったようだった。
そして高野は気づく。ほんの少しの一歩を踏み出すだけで、何かが変わるはずなのに、その一歩を踏み出せないことが、すべての原因だと。
「でも、どうすればいいんだろう…」
その一歩が、なかなか踏み出せない。
第2話:空虚な勝負
高野がアルバイトを辞めると決めた理由は、単純だった。日々の生活における不安感と、自己嫌悪が溜まりに溜まっていたからだ。レストランのスタッフはどんどん若くなり、自分が年齢にそぐわない位置にいることを痛感する日々。それが、なぜか耐えられなくなった。
「いい加減、何かを変えないと…」そんな思いが胸の中でぐるぐると回り、高野はついに決断したのだった。だが、アルバイトを辞めるということは、生活の糧を失うことでもあった。新しい仕事を見つけるでもなく、ただの無職が増えていくだけだという予感が、次第に強くなっていく。
退職日、高野は石川と最後の挨拶を交わした。石川は、にやりと笑いながら、「よっしゃ、これで楽になるな」と、どこか嬉しそうな顔を見せた。おそらく、高野が辞めることを面倒臭いアルバイト仲間が一人いなくなると喜んでいるのだろう。その顔を見て、高野はただ呆れて、無言で首を振った。
石川は高野を「愚か者」と見なしていたのだろうか。あるいは、同じく自分の未来に絶望しているからこそ、高野を見下し、無理にでも上から目線で接していたのかもしれない。いずれにせよ、石川の態度には我慢ができなかった。高野は、店を去ることに一層の決意を固めた。
その後、高野はしばらくパチンコに時間を費やすことに決めた。アルバイトを辞めた後、毎日同じようにパチンコ屋に通う日々が続いた。石川の言葉が頭をよぎるたびに、そのたびにパチスロの台に座り、少しでも気分を紛らわせようとした。
「今月はもう少しで稼げるかもな…」と、どこかで石川の言葉が耳に響く。20万円を手にしたという石川に、ほんの少しの羨望の気持ちが湧いた。しかし、その一方で、どこかで彼を蔑む感情もあった。
「どうせ、あいつもまた一発勝負で金を使い果たすだけだろう」と思う反面、パチンコに没頭している自分が情けなくも感じた。だが、どこかで「これしかない」という気持ちが強く、抜け出せない泥沼に足を取られているような感覚に陥っていた。
そんなある日、ふと街を歩いていると、目の前で数人の若者が集まって話しているのを見かけた。彼らの顔は、少しだけ自信に満ちた表情をしていて、高野は思わず目をそらしてしまった。
「ああ、俺は何をしてるんだろうな…」と、心の中で呟く。どこかで、この先も何も変わらない気がしていた。
その夜、高野はふと思い立ち、石川に連絡を取った。仕事終わりに、久しぶりに飲みに行こうということになり、ふたりで店を見つけて座った。
石川はすでに少し酔っていたが、会話の中でまたもや「俺、あのとき結婚してたらな」と愚痴をこぼす。高野は内心で、石川の愚痴を笑う余裕もなく、自分もまた未来を投げ出しているのだと思い知らされる。
「でも、結局何も変わらないんだよな…」と高野は言い、またパチンコでお金を使い果たしてしまう自分を軽く笑った。
石川は「そんなこと言ってるから、お前はいつまで経っても変わらないんだよ」と言い、少しキツい言葉を投げかけてきた。
その瞬間、高野は石川の言葉に心を突き刺されるような感覚を覚えた。彼の言う通りだ。自分は何も変わろうとしていない。ただ流れに身を任せるだけの毎日。だが、その「変わらない自分」が、今はどうしても許せない。
「よし、何かを始めないと…」高野はその思いに押しつぶされそうになりながら、決意を固める。だが、その「何か」が何であるかを思いつくことはできなかった。
その日は、無駄に過ぎていっただけだったが、高野の心の中には小さな火が灯った気がした。今の自分にできる一歩を踏み出すための「何か」を探し続けること。それが、次の一歩に繋がるはずだと、どこかで感じていた。
パチンコの台の前で過ごす日々は、もう終わりにしよう。そう思いながらも、未来に何を持ち込むかは、今はまだわからなかった。
第3話:予期せぬ勝利
高野は、パチンコで少しの間だけ心の平穏を取り戻すことができたが、どこかでそれが虚しさを増していることに気づいていた。連日、同じような時間を無駄に過ごし、勝っても負けても一時的な安堵しか感じないことに、だんだんと嫌気がさしていた。そんな時、ひょんなことから運命が動き出す。
ある晩、いつものようにパチンコ屋に足を運んだ高野は、普段と違う感覚に襲われた。今日は何かが違う。台を選ぶときの直感が、妙に冴えているのだ。最初は普通に回していたものの、突然、台の調子が良くなり、リーチが連続してやってきた。見逃すまいと目を凝らし、手元を動かさずにはいられなかった。
そして、あっという間に大当たり。大きな音が鳴り響き、周囲の視線が集まった。その瞬間、高野は自分が今、何か特別なものに包まれているような気がした。何度も連続して当たり、気づけば約35万円もの利益を手にしていた。
「これが、運命なのか?」と不思議な感覚に包まれながら、高野はその日を終えた。帰り道、街の明かりが遠くから見え、耳に入るクリスマスソングが妙に切なく感じた。外は暗く、静かな冬の夜が広がっている。ふと立ち止まり、空を見上げると、心の中にいくつかの疑問が浮かんだ。
「本当にこれでいいのか?」
勝ったお金で満足し、無駄に過ごした日々を振り返ると、心の中にひとつの空白が広がっていることに気づく。自分は、このままでいいのだろうか。周りの友人たちは、普通に社会人として進んでいるというのに、自分だけが何も進んでいないように感じてしまう。
その夜、何もかもが無意味に思えて、心の中でこぼれるように思った。
「何か、変えなきゃ…」
その時、ふと学生時代の友人・美樹のことを思い出した。彼女は、大学卒業後、バックパッカーとして世界を旅していると言っていた。それを聞いた時は、ただの話だと思っていたが、その後、彼女からの手紙が届いたとき、何か自分の中で引っかかるものがあった。
「もし、今、世界を旅したら…」
その思いがふと強くなり、決意が固まった。
第4話:東南アジアの風
翌日、高野はパソコンを開き、安くて手軽に行ける東南アジアの都市を調べ始めた。特に目的地を決めることなく、ただ手持ちの資金で行ける場所を探していた。ベトナム、タイ、カンボジア……どの都市も魅力的に見えたが、最終的に選んだのは、タイのバンコクだった。
バンコクは、観光地としても有名で、安い宿や食事も豊富にあった。そして、少しでも自由な時間を過ごし、今の自分を見つめ直すには最適な場所だと思えた。高野はすぐに航空券を手配し、数日後には東南アジアの都市に足を踏み入れることになった。
バンコクの空港に降り立った高野は、異国の空気に包まれた。湿気を含んだ空気が鼻をくすぐり、賑やかな街並みが目の前に広がっている。そこには、見知らぬ言葉や異なる文化が息づいていて、高野は自分がどこに来てしまったのか、少しばかり不安を感じながらも、心の中で何かが弾けるような感覚を覚えた。
「ここから、何かが変わるかもしれない…」
宿泊先は、ドミトリーのベッドが6つ並ぶ共同部屋だった。初めてのドミトリー宿に、少し不安を感じながらも、安い宿代に満足していた。部屋には他にも数人の旅行者がいたが、そのうちの一人が声をかけてきた。
「お前、どこから来たんだ?」
話しかけてきたのは、30代後半くらいの男だった。高野は少し警戒しながらも、少しずつ会話を続けることにした。その男は、原田という名の日本人だった。
「俺、ちょっと前に日本を出たんだ。ここでしばらく過ごすつもりだ」
原田は、高野と同じくアルバイトをしていたが、家族との確執から日本を離れることを決意し、今は旅をしているという。しかし、彼はどこか冷めた目をしていて、その目が高野には妙に響いた。
「俺も、なんだか自分がどこに行きたいのか分からなくなってきて、ここに来たんだ」
原田は、自分の悩みをさらけ出すように語った。高野もまた、心の中で同じような感覚を抱えていたため、次第に打ち解けることができた。
その夜、宿の酒場で再び原田と会い、ふたりでビールを飲みながら話した。原田は、明日、バスで100km先の町へ行く予定だという。その町には、安くていい仕事があると聞いているとのことだ。
「よかったら一緒に行かないか?」と、原田は高野に声をかけた。
高野は少し迷ったが、最終的に断ることにした。原田とは気が合ったが、もし一緒に行けば、今までの自分の人生に戻れなくなるような気がしたからだ。どうしても、その先に進む勇気がなかった。
「ありがとう。でも、俺はしばらくここにいたいんだ」
そう言って、高野は原田に微笑んだ。原田もそれを理解し、うなずいた。次の日、原田はバスに乗って町へと向かったが、高野はバンコクの街を歩きながら、改めて自分の未来について考えた。
第5話:異国の酒場と予期せぬ出会い
高野は、再びバンコクのドミトリー宿に引き続き、泊まることにした。前回と変わらず、シンプルな共同部屋には6つのベッドが並んでいて、隣のベッドには静かに寝ている旅行者が何人かいる。だが、今回は少し様子が違った。部屋の一角に、外国人の若い女性が荷物を広げていたのだ。
「おお、こんなこともあるんだな」と高野は、少し驚きながらも心の中で思った。これまで、ドミトリー宿は男性客ばかりだったので、女性の存在が新鮮に感じられた。
その女性、エミリーは、アメリカから来たバックパッカーだった。やや緊張気味に自己紹介すると、エミリーはすぐに笑顔を見せて、「こちらこそ、よろしくね!」と返してきた。英語を使うのは少し緊張する高野だが、なんとか会話を続けているうちに、心地よい距離感で話せるようになった。
「この宿は、いろんな国から来た人が集まってて面白いよね」とエミリーが言うと、高野は頷きながら、「そうだね、僕もこれまでの人生でこんなに多国籍な場所は初めてだよ」と答えた。エミリーは、高野の言葉に共感してくれたようで、彼女の笑顔がさらに広がった。
その日の夜、宿の酒場で他の旅行者たちと話していると、いくつかの面白い出会いがあった。まずは、寿司職人の話をしていた日本人の男性、名を佐藤と言った。佐藤は高野よりも若いが、すでに世界中を旅しており、その経験は豊富だった。彼は、どこに行っても寿司職人としての仕事を見つけ、腕を磨いてきたと言う。
「寿司って、どの国でも意外と受け入れられるんだよ。食文化が違っても、みんな美味しいと思ってくれるんだ」と佐藤は話してくれた。「でも、どこに行っても自分の仕事に誇りを持てるのがいいね。旅先でも、少しでも日本の良さを伝えられるから」
高野は佐藤の言葉に感心し、少し羨ましさを覚えた。自分も、何かに誇りを持って生きていけるようになりたいという思いが心の中に芽生えた。
その後、佐藤との会話が続く中で、さらに面白い人物が加わった。60代で、世界一周をしているという男性だ。彼の名前は鈴木と言い、タイに到着したばかりだという。鈴木は、自転車で世界を回り、最後にタイを訪れたと話していた。
「妻には1年間暇をくれと言って、世界一周を始めたんだ。でも、最初はアメリカ大陸を自転車で走っていたけど、砂漠でサボテンの棘にやられてタイヤがパンクしたんだ」と鈴木は、みんなを笑わせながら話した。
「そのときは本当に焦ったよ。砂漠で1時間も自転車を押しながら歩いていたら、突然砂嵐が来て、サボテンが棘だらけで…でも、面白い思い出になったんだ」
みんながその話を聞いて大笑いしている中、高野も鈴木のエピソードに感心し、彼のような生き方に憧れる気持ちが湧いてきた。
「でも、結局今は中国に行く予定で、北京を経由して帰るんだ。旅の途中で感じることがいっぱいあって、いろんな人と出会ってきたよ」と鈴木が語った。
その夜、高野は彼らとの会話を楽しみ、さまざまな人生観を聞くことができた。佐藤のように誇りを持って仕事をしている人、鈴木のように冒険を続ける人、そしてエミリーのように旅を楽しんでいる人たちの話に触れて、彼は少しずつ自分の中で何かが変わり始めるのを感じていた。
そしてその夜、宿の酒場でふとした瞬間、高野はエミリーに肩をたたかれた。彼女は、高野の目線を追って指さした先にある仏像を指差して、こう言った。
「ビック・ブッダ!」
高野はその言葉に戸惑いながらも、何とか答えようとした。「ああ…あれは、ビッグ・ブッダだね。でも、ちょっと、何て反応していいか…」と、言葉に詰まってしまった。
エミリーはその様子を見て、少し笑ってから、「大丈夫だよ!あなた、英語があまり得意じゃないのかな?」と親しげに言った。
高野は照れ笑いを浮かべながら、「ああ、まあ、そんなところだね」と答えた。その瞬間、彼は少しだけ自分の弱点を受け入れられた気がした。英語に対する不安が、少しだけ軽くなったような感覚があった。
それからというもの、高野は少しずつ、周りの人々と積極的に会話を楽しむようになった。彼らとの出会いは、高野にとっての新しい一歩となり、これからの未来に向かって少しずつ踏み出す力となっていった。
そして、夜が更けるにつれて、高野は今まで感じたことのないような自由な気持ちを抱きながら、再び明日へと向かっていくのだった。
第6話: 別れと新たな決意
ドミトリー宿で知り合った佐藤が、ついに出て行った。佐藤は、もともと日本からバックパッカーとして旅をしていたが、すっかり友達になった高野に別れを告げて、次の目的地へ向かうことに決めた。高野はどこか寂しさを感じながらも、佐藤の背中を見送った。
その後、鈴木も宿を出て行くと言った。彼はカンボジアに商売を始めるために行くという。言葉少なに、でも確かな目をしている鈴木を見て、高野はどこかで鈴木の挑戦を尊敬しつつも、心の中で焦りを感じていた。自分にはそのような挑戦ができるのだろうか?と思いながらも、鈴木が旅立つ日、何も言えずにただ見送るだけだった。
そして、エミリーもまた、宿を出る日が来た。エミリーとは、日々の生活の中で少しずつ仲良くなり、気がつけば高野の心の支えになっていた。エミリーは、特に日本語が得意ではないにも関わらず、優しさを持った人物だった。別れが近づく中、高野は彼女に最後のお別れを言う前に、バンコクの街でデートをすることにした。
二人は町を歩きながら、いくつかの小さなカフェでお茶をしたり、雑貨店を覗いたりして過ごした。エミリーは、高野が自分を見つけられていないことを感じていたのだろう、ふと、「何か見つけた?」と聞いた。その言葉に、高野は胸が締め付けられるような思いを抱きながら答えた。
「まだ、何も見つけていない…」
エミリーは笑顔を浮かべ、優しく言った。「それでいいんじゃない?人生って、急ぐものじゃないわ。あなたはきっと、自分のペースで見つけられるわよ。」
その言葉に、高野は心が少し軽くなるのを感じた。エミリーの言葉は、あまりにも温かく、そして本当に優しさに満ちていた。
最後にエミリーは、高野に励ましの言葉を送った。「高野さん、あなたには素晴らしい未来が待っているわ。焦らずに、自分のペースで歩んでいってね。」
その言葉を胸に、高野は彼女を見送り、再び一人になった。
その後、宿に戻った高野は、ドミトリーの冷たい空気に包まれ、ふと気づいた。佐藤、鈴木、エミリー…これまで出会った人々はそれぞれ、自分の道を歩んでいる。その中で、自分は何をしているのだろうか。いつまでも同じ場所に立ち続けているわけにはいかない。だが、何をすべきかは分からない。
翌朝、高野は決断した。この地にいても、何も変わらない。自分の人生を歩むためには、やっぱり日本に戻るしかない。そして、日本での新しい一歩を踏み出す決心をした。
第7話: 祖母の言葉
高野が日本に帰国したのは、思っていたよりも早かった。バンコクを出て、少し疲れた様子で日本に戻ると、まず最初に会ったのは、祖母だった。高野が実家に戻った時、祖母は静かに迎えてくれた。
高野は心の中で、どこかで安堵感を覚えながらも、どこか焦燥感が胸に渦巻いていた。帰ってきたはずなのに、何も変わらない日々が待っているだけだと感じていた。
祖母は高野が思っているよりもずっと落ち着いていて、焦っている高野に一言、こう言った。
「人生は長いんだから、焦ることはないよ。大切なのは、思いやりを持ちながら生きることだよ。80年生きてきた私が言うんだから、まだまだあんたは若い。どんなに遅く感じても、やり直しはきくんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、高野はふと立ち止まった。そして、祖母の言葉の意味をじっくりと噛みしめるように考えた。焦りや不安が心を支配していたが、祖母の穏やかな言葉が、どこかでその焦りを和らげてくれた。
祖母が続けた。「まだまだ人生にはいろんな道があるんだから、焦ってなんかいないで、ゆっくり考えてみなさい。」
その言葉に、高野は何かしらの解放感を感じた。何もかも急ぐ必要はない。まずは、自分のペースで進んでいくことが大事だと気づいたのだ。しばらく静かに思いにふけりながら、高野は、これからの自分の人生をどう歩んでいくべきか、ゆっくりと考えることに決めた。
祖母の優しさと、心の中で湧き上がる新たな決意に包まれた高野は、これからの一歩を踏み出す準備が整ったような気がした。
第8話:新たな決意
高野は、しばらく旅をしていたことを思い返し、これまで感じてきたモヤモヤした気持ちに気づき始めていた。異国の地で過ごした時間が、自分を少しずつ変えていたことを実感していた。だが、心の中でそれに気づくことができた一方で、現実的な問題が待ち構えていた。
「そろそろ、社会に戻らなきゃな…」
異国での自由な時間が、すっかり心地よく感じられた。しかし、旅行だけでは生活は成り立たない。とりわけ自分には、未来を形作るために必要なものが何か、まだ見えていなかった。
そんな中、高野は一人の知人から連絡を受ける。それは、昔の大学の同級生・山田からだった。山田は今、ある会社で働いており、高野に仕事の紹介をしたいと言ってきた。
「面接とか特に厳しくないし、君ならすぐに採用されると思うよ。」
あまりにも軽い調子で言われ、正直なところ最初はその話に乗り気ではなかった。しかし、旅先で自分を見つめ直す中で、少しずつ現実と向き合う必要があることを感じ始めていた。そして、何かしらの仕事を始めることで、再び歩みを進めるためのきっかけが得られるのではないかと思い直した。
「そうだな、行ってみるか…」高野は覚悟を決めて、山田からの誘いを受け入れることにした。
面接当日、簡単な質問と軽い会話の後、高野はすぐに採用されることが決まった。仕事内容は営業職で、最初は基礎的なことを学びながら少しずつ業務に慣れていくというものだった。驚くべきことに、特に専門的なスキルも求められず、必要なことはまず基礎から学ぶことだけだと言われた。
その晩、高野は再び空を見上げながら思った。自分は今まで何をしてきたのだろうと。社会に出て、どんな仕事に就いても、何かを学ばなければならないのは分かっている。でも、これまでの自分がどこまでその準備ができていたのか、改めて考えさせられる瞬間だった。
第9話:基礎を学ぶ日々
新しい仕事が始まると、最初のうちはどこか不安だった。営業職とは言っても、接客業とは全く異なる。毎日のように見積もりを作り、クライアントとの打ち合わせに出かける。その度に、今まで経験してきたことの無力さを感じながらも、少しずつ成長している実感があった。
高野は、毎日必死で覚えた。初めて電話をかけるとき、最初はドキドキしてしまい、うまく言葉が出なかった。しかし、徐々にコツを掴み始めると、自分の中に少しずつ自信が芽生えてきた。
「何かを始めたから、少しずつでも進んでいるんだ」と感じることができた。
その中で、高野はあることに気づく。それは、会社の先輩たちが皆、地道に自分の仕事をこなし、同時にビジネスマンとしての基礎を着実に積み上げている姿だった。その姿勢が、自分にとって大きな刺激となった。
「俺も、こうして一歩ずつ進んでいけばいいんだ」と、高野は思うようになった。
仕事を覚えることは簡単ではなかったが、何かを学んでいると実感できる瞬間が増えていくたびに、心の中のもやもやは少しずつ晴れていった。
第10話:新しい道
月日が流れ、高野はその会社で働きながら、徐々に仕事に慣れていった。最初はただの営業職として働いていたが、次第に自分の役割をしっかりと自覚するようになり、何かを成し遂げたいという意識が強くなっていた。
その中で、少しずつ自分の将来についても考えるようになった。以前は漠然とした不安に包まれていたが、今は、どこかで自分も独立したいという思いが芽生えてきた。仕事を通じて知り合った人たち、旅行先で出会った仲間たち、どれもが自分に影響を与えた存在だった。
「いつかは、自分の力で何かを成し遂げたい。」
高野は、その思いを胸に秘めながら、まずは社会人としての土台を築いていくことを決意する。目の前の仕事に全力を尽くしつつ、少しずつスキルを身につけ、将来に向けた準備をしていくこと。それが、自分にとって一番必要なことだと気づいた。
そして、高野は会社での仕事を続ける中で、最終的に自分の独立を目指すために、今できることから始める覚悟を固めた。
第11話:夢のような時
時間が経ち、高野は毎日のように自分の成長を実感するようになった。ビジネスマンとしての基礎を学び、今までの不安や迷いが少しずつ薄れていった。だが、ある日突然、彼は一度目を閉じてから目を覚ました。
「え…?」
目を開けた瞬間、高野は驚いた。目の前には、見覚えのある風景が広がっていた。どこか異国の地ではなく、見慣れた自分の部屋。自分はいつの間にか、部屋のベッドで寝ていた。
そして、その時、驚愕の事実に気づく。すべては、夢だったのだ。異国を旅したこと、就職して基礎を学んだこと、すべてが夢の中の出来事だった。目を覚ました高野は、混乱しながらも、どこかで心の中に深いノスタルジーを感じていた。
「そうか…これは夢だったんだ…」
異世界で悩んでいた自分、そしてそれを乗り越えて成長していった自分。その姿が夢として現れていたのだと気づいた。高野は、ふと元の世界に戻りたいと強く思う。
「また、あの世界に戻れたらいいのに…」
