福島県原発被災地区の復興に向けて -3ページ目

脱原発文学者の会 第3回福島訪問 7

仮設住宅

 7日の夜は南相馬市在住の会員である若松丈太郎さん(詩人)と原町区の居酒屋で懇親会を開きにぎやかなひとときを過ごした。若松さんは震災前にチェルノブイリと福島の未来を重ね合わせた詩「神隠しされた」(『ひとのあかし』清流出版所収)が震災後に「原発事故を予見した」と注目を浴びた詩人だ。穏やかな人柄で、ご高齢で酒は一滴も飲めないのに僕らの馬鹿騒ぎにつき合ってくださった。

 その夜は原町駅前のホテルで宿泊し、翌朝、若松氏の案内で鹿島区にある仮設住宅を訪問する。鹿島区は仮設住宅が多い。地図を見てざっと数えただけで20ヶ所以上ある。そのひとつひとつが広い。

 僕たちが向かったのは寺内仮設住宅。実はここに僕の両親も暮らしている。本当は両親の家を訪ねるはずだったが体調不良で断られたため、森詠氏(作家)のはからいにより若松氏を通じて寺内仮設住宅の自治会長をしておられる藤島晶治さんの話を聞くことになったのだった。

 そういうわけで両親にはちょっと顔を見せる程度にしておこうと思っていたのだが、父は仮設内の喫煙所で煙草を吸いながら僕たちを待っていた。律儀な人だから、訪問を断ったことを心苦しく感じていたのだろう。もうすぐ84歳になる父は思ったよりも年寄りくさくなり、ふと不安を覚えた。同じ仮設に住んでいた父の同級生は、いい話し相手だったのに次々と亡くなっているのだ。まあ、煙草を吸っているくらいだから病気はしていないのだろうけど。

 仮設住宅の集会所に入り藤島さんの話を聞く。藤島さんは詩人でもある。避難生活に入ってからチラシの隅などに日々の思いを書きつづっていた言葉を、ボランティアの人が目を止め詩集にまとめたのだという。『なんじょすっぺ』(日本の伝統食を考える会 東京連絡会)と『仮設にて』(遊行社)。震災前は詩とは無縁だったというから人生は不思議だ。震災は様々なかたちで人を変えていく。

 藤島さんは、仮設住宅はますます高齢化していくのに、制度がそれに対応していないと語る。

 一例として、独身者は年齢にかかわらず四畳半の住居を割り当てられる。寝起きが楽になるからと高齢者がベッドを入れれば、それだけで部屋のほとんどをふさいでしまう。だからといって特例は許されない。来春、小高区の住民帰還が始まれば空き部屋が増えるだろうが、だからといって二間の住居に移ることはできない。仮設は県営なので自治会に裁量権はない。生活実態より制度が優先されるのだ。

 福島県では震災による死亡者数を震災関連死が越えた(震災死1612人に対し震災関連死1884人 2015年3月統計)。今後も増加しる傾向なのに行政の対策は遅れている(南相馬市では若い看護師が避難してしまったことが大きい)。

 藤島さんは仮設内にシェアハウスを設立することを提案し、県に要望書を提出するための署名を集めていた。もちろん僕たちは署名した。来春、仮設住宅は大きな曲がり角を迎える。間に合ってくれればいいのだけれど。

 藤島さんの詩を大きな和紙に絵入りで墨書してくれた人がいると聞き、床に広げて見せてもらった。作者は集会所で絵手紙の指導をしている人で、それらしいほのぼのとしたタッチだ。森氏は、鎌倉ペンクラブが主宰する映画上映会で会場に展示したいと作品をいくつか選んでいた。会場がざわついているところへ僕の両親がわざわざ挨拶にくる。若い自分は両親のこういう律儀さが旧弊的に思えて本当に嫌だったのだけれど。

 後に、伊神権太氏(作家)は「おやさしいご両親の姿に感銘を受けました」と話してくれたが、怖かった父のやさしくなった姿を見るのは寂しいものだ。


 

脱原発文学者の会 第3回福島訪問 8

飯舘村

 飯舘村について説明は要らないだろう。福島県の悲劇を象徴する村だ。

 現在では、帰村をめぐる住民の対立という新たな悲劇が浮上している。村長は来春の帰村をめざしているが、除染でどこまで線量は下がるのか、目標とする線量は何シーベルトなのか、そもそも安全な線量は何シーベルトなのか、環境省や村議の回答は曖昧で住民は不安を募らせている云々とホームページを調べればざっと出てくる。昨年会った福島大の教授は「飯舘村に支援に入っても村長派か反村長派かまず訊かれる。支援がやりにくい」と話していた。

 原町区郊外のイオンで昼食の弁当を買い、県道12号線を走り飯舘村をめざす。

 道路は谷間を抜け、八木沢峠を越えて飯舘村に入る。飯舘村は「風の谷」だ。海から吹きつける風がたびたびこの地に冷害をもたらし、2011年の春には放射性物質をもたらした。酪農を広めたのは冷害に悩まされてきた先人の知恵だったが、それも原発事故で失われた。ホームページで見つけた住民の言葉が強く心に残っている。「飯舘村は故郷ではない。生活の場だ」。この言葉は重い。「故郷」という言葉がふくむ情緒にごまかされたくはないのだ。





 8日は平日だ。大型トラックがやたらと走っている。土を積んだトラックやフレコンバックを積んだトラック。どれも除染関係だろう。田んぼの中にクレーン車があり、ショベルカーがあり、フレコンバックが積んである。いわゆる黒いピラミッド。重さ1~1.5トンのフレコンバックを積めるのはせいぜい2段か3段、それ以上は過重でフレコンバックが破れる怖れがあるが、場所によっては5段も積み上げている。要するに置き場所がない。ピラミッドを安定させるための土が必要なため削られた山もある。山腹をえぐられ赤土を剥き出した山。村は地形そのものを変えていく。前にも書いたが、一度失われたものは永遠に戻らないのだ。

 「フレコンバックって見るだけで嫌な感じがするね。不吉な塊っていうかさ」と岳真也氏は言う。その「不吉な塊」が民家の庭先に並んでいたりする。確かに、帰村したとしても窓を開けるたびにこんな物を目にしなければならないとしたら堪らないだろう。

 車は伊丹沢地区に入る。飯舘村役場を始め、スポーツ公園や図書館や特養ホームが集まる村の中心部だ。人口6000人の村には不似合いな施設を見れば、村長が帰村を願う気持ちもわかる気がする。

 役場は除染作業員の休憩所になっていた。作業員は礼儀正しい。ひと目で外部の人間とわかる僕たちにも挨拶する。除染作業には疑問の声も多いから、やっぱり気を遣っているのだろうなと思う。



 職員に断り、役場内のロビーを借りて昼食をとる。役場の前庭には「心和ませ地蔵」なるものがあり、地蔵の頭を撫でると小学生の歌う村民歌が流れる。「その名も飯舘わがふるさとよ、緑の林に小鳥は歌い」と。こういう歌を聞いていると、逆に子どもたちには帰ってほしくないな、と思ってしまう。「ふるさとまとめて花いちもんめ」と、寺山修司ふうに郷愁を空へ蹴り上げられないものか。

 地蔵の隣にあるモニタリングポストの数値は0.43マイクロシーベルト毎時。言うまでもなく高い。

 帰り道、飯舘村の第二の中心部である飯樋地区を通るとき、小学校にショベルカーが入り校庭に盛り土をしているのを見かけた。帰村するということはやっぱり、小学校も再開することなのだろうか。






脱原発文学者の会 第3回福島訪問 9

富岡町


 飯舘村から南相馬市に戻り、国道6号線を南へと引き返していく。日曜日だった昨日と異なり、やはり大型トラックがやたらと多い。浪江町、大熊町を通過し富岡町に入る。昨日、時間不足で割愛した町だ。

「たしかこのへんに高校時代の同級生の家があったんですけどね」僕が言う。一度だけ彼の家に遊びに行ったことがある。「ナマズというあだ名だったんです」

 山本源一氏が笑う。目は笑っていない。4年間も放置されていた町は傷みが激しく、生活の匂いがまるでしない。空き家というよりは抜け殻だ。富岡町は福島第一原発から二十キロ圏内の旧警戒区域。福島第二原発のある町だ。町は2017年に避難解除を予定しているが、帰還を希望する住民が少ないのは他の被災市町村と同じだ。

町並みを抜けて富岡駅に向かう。いや、富岡駅は消えていた。津波に破壊された駅舎は撤去されてホームとレールだけが残っている。

 かつては眺望の素晴らしい駅だった。夏の日なら、そして快晴の昼下がりなら、青々とした田園の広がりの向こうに鮮やかな水平線が海と空をくっきりと裁断しているのが電車の窓からも見えた。風景に気持ちが吸いこまれるような、実にシンプルで気持ちのいい眺めだった。今は、駅と海の間にフレコンバックが積み上がっている。

 駅前の光景は惨かった。何もここまで惨くなくても、と言いたくなるほど惨かった。これが4年前の災害の跡だと誰が信じるだろう。駅前の旅館や商店や飲食店や事務所に、津波の爪痕が生々しく残っている。窓はぶち抜かれ、壁は破られ、階段は崩れ、屋内は掻き回され、そのままだ。原発事故が時の流れを止めた。雑草の茂みには自動車がいまだに転がっている。立入禁止の黄色いテープが破られた家がある。泥棒が侵入し金目のものを盗んだのだろう。赤いスプレーで壁に落書きが残されている。被災地で目にして心が痛むのは、こういう、ろくでもないやつが残した痕跡だ。

 やり切れない思いを抱いて富岡駅前を離れる。途中、Jヴィレッジに寄り道しながら(ガードが堅く、駐車場を掠めて素通りしただけ)いわき市に引き返す。

 いわき駅ビルにある半田屋で夕食兼飲酒兼反省会。ここはお総菜がおいしくて安い。いわき市で食事をするときはいつも半田屋の世話になっている。みんなは元気だが、僕は疲れた。思い返すと、ここで食事をとるときの僕はいつも疲れている。今日も疲れきった。僕は一体、いつまでこういう旅を繰り返すのだろう。

 僕は友人の映画監督と『原発被災地になった故郷への旅』という記録映画を作ったことがある。よく考えればこのタイトルは少しおかしい。「故郷への旅」とはふつう言わない。故郷に帰るのなら帰郷だ。だから「故郷への旅」というのは、故郷が帰る場所ではなく半ば異郷になったことを差す。

 常磐線が全線開通し小高駅まで電車で行けるようになったら「帰郷」と言えそうな気がする。そのときに「故郷への旅」は終わるのだろう。そんな日は来るのだろうか。僕が生きているうちに間に合えばいいけど。