福島県原発被災地区の復興に向けて -2ページ目

脱原発文学者の会 第3回福島訪問 4

双葉町

 福島第一原発は大熊町と双葉町にまたがる。爆発した1~4号機は大熊町にあり、事故をまぬがれた5・6号機は双葉町にある。事故直後、当時の双葉町長は5・6号機の存続を政府に要望している(『福島原発の町と村』七つ森書館)。あれだけの被害をこうむっても東電依存から頭を切りかえることができなかったのだ。原発立地町の愚かしくも哀しい話だ。

 それはともかく、双葉町は原発の恩恵を受けてきた。その象徴とも言えるのが例の「原子力明るい未来のエネルギー」のアーチ型看板だ。

 「原子力、明るい未来が消えちゃった」と山本源一氏(編集者)がシニカルなジョークを飛ばす。6号線沿いに、その看板が見えるポイントがある。フェンスの50メートルほど先。警備員はいない。来訪者とのトラブルを避けてか、被災地見学の名所(?)ほど警備は手薄だ。

 目の前には前田川が流れ、堰を落ちる水音が響き、川の上に張りだした葉桜の茂みから涼やかな野鳥のさえずりが聞こえる。森千春さん(エッセイスト)と桐生典子さん(作家)は鳴き声を聴いただけで鳥の名を言い当てる。一見、のどかな田舎町の風景だ。しかし川向こうの家並みは整然としているようでいて、どことなく荒んでいる。時間の流れが無人の町を容赦なく痛めつけているのがわかる。ただ、野鳥の無心なさえずりが空気をなごませてくれる。壊れてしまった生活の痕跡と、旺盛な自然との奇妙な混在。

 僕の出身校である双葉高校はこの町にある。青春を過ごした町だから思い入れは強い。僕の後輩にあたる橘光顕氏(シンガーソングライター)も思いは同じだろう。目の前には双葉町体育館がある。「私は高校時代、吹奏楽部にいたんですが、毎年ここで定期演奏会をしていたんです」と感慨深そうに語る。僕は剣道部だった。僕の現役時代にアーチ型看板はなかったが、部活動でよく海まで走った思い出の濃い道だ。

 現在、この看板を撤去しようという動きがある。双葉町は410万円の予算を計上した。劣化による落下の危険性が理由だが、国道6号線が開通して来訪者がこぞって撮影していくのも面白くないのだろうな、と僕は勝手に想像する。


 「原爆ドームと同じですよ。負の世界遺産として登録すべきですよ」と僕は熱弁を振るったが、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を考案した当人も保存を訴えていると後で知った。27年前、当時小学6年生だった大沼勇治さんだ。大沼さんは6502人の署名を集めて町長に提出し、町では計画を白紙に戻して考え直すという。

 確かに、「町の現状にそぐわない」と撤去を求める町民もいる。目にするたびごせやける(腹が立つ)人も多いだろう。やんだぐなる(嫌な気分になる)人だっているに違いない。町に戻りたい人、戻らない人で受け止め方は異なるはずだ。部外者の僕には簡単に口出しできない問題だ。

脱原発文学者の会 第3回福島訪問 5

南相馬市小高区

 双葉町で僕たちは浪江班と小高班に分かれた。浪江班は橘氏の案内で浪江町に入る。浪江町は橘氏の故郷だ。彼は今、埼玉県で避難生活を送りながら避難者支援のチャリティーイベントを開くなど活動を続けている。

 小高班は浪江町を素通りし、僕の案内で南相馬市へ向かう。僕は南相馬市小高区で生まれ、18歳で上京した。小高区は福島第一原発から20キロ圏内の旧警戒区域。同じ南相馬市でも原町区や鹿島区と状況はまるで違う。屋内退避区域ではあれ、いちおうの生活は成り立っていた原町・鹿島区と違い、小高区は震災から一年以上にわたり立ち入りが制限された。今では出入りは自由になったが宿泊は禁止されている。避難が解除され住民の帰還が始まるのは来年(2016年)4月からだ。

 草ぼうぼうの田園地帯に津波で半壊した家屋が点在する国道沿いの光景は、震災から4年たっても変わらない。住人に戻る意思がなければ変わりようがないのだ。

 しかし、国道を下りて常磐線をまたぎ越える陸橋を走っていたとき、線路に工事車両が入っているのが目に入り、Uターンしてくれるよう慌てて頼んだ。「橋の真ん中でそれは無理だ」と、ハンドルを握っている山本源一氏は苦笑した。やむを得ず、橋を下りてから橋の真下に回り込んで車を止め、歩行者用の階段を上った。




 線路に生い茂っていた雑草がきれいに取り除かれている。線路の上にユンボがのっかっていた。赤茶けた砂利の一部が真新しい砂利に入れ替えられ、そこだけが白っぽい。来年4月からの住民帰還に向けて、不通だった常磐線が開通の準備をしているのだ。

 うれしかった。やっとここまできたか、という思いが胸に込み上げた。なにはともあれ、線路がつながるということは動脈が生き返ることなのだ。大袈裟に言えば、電車の音は心臓の鼓動といっしょだ。細々とでも血液を送り届けることができる。駅前で生まれ電車の音を聴きながら育った僕は特にそう感じる。

 もうひとつ、復興を予感させる光景があった。

 駅前通りには草花を植えたプランターが並んでいるのだが、ベビーカーを押しながら草花に水をあげている女の人を見かけた。歩み寄り、「こんにちわ」と声をかける。自己紹介をし、「どちらの方ですか?」と尋ねる。彼女は小高の人ではなかった。相馬市からやってきて、ボランティアでアンテナショップの店番をしているという。清楚で物静かな方だ。

 アンテナショップは「希来(きら)」という名だ。木彫りの看板の下をくぐると、5坪ほどの店内に仮設のおばさんたちがこしらえた手工芸品がところせましと並んでいる。華やかで、素朴で、ささやかでいておおなかな心に触れるような品々。9(苦)が猿(去る)という意味の九匹の猿が小枝にまたがった人形がある。僕は同じものを東京で買った。ここではシルクのコースターを2枚買った。



 先に詩集を買って外に出ていた川村湊氏(文芸評論家)は、ベビーカーを押して赤ちゃんをあやしていた。辛口評論家の川村氏のほほえましい姿は、何となく意外だった。失礼だけど。というより、小高駅と赤ちゃんと文芸評論家という取り合わせが意外なのだ。僕はもう、小高で赤ちゃんを見るなんてこの先何年もないだろうと諦めていたから。

 旦那さんもやって来て赤ちゃんを抱き上げる。家族にお別れのあいさつをして僕らは立ち去った。仮死状態だった僕の町に、一点、血のぬくもりが蘇ったような気がした。

脱原発文学者の会 第3回福島訪問 6

希望の牧場

 小高の町は表情を変えつつある。壊れた家は次々に撤去されて更地が増え、新しい家が次々に建っている。僕の実家も今年10月に取り壊して建て替え、仮設暮らしの両親が来年4月の規制解除に合わせて移り住む予定でいる。しかし高齢の両親が安心できる医療や介護体制がどれだけ整備されているか、隣近所に話し相手がいるかなど心配の種は多い。帰還を喜んでばかりもいられない。

 「戻る」意思を示す住民は「できれば戻りたい」を合わせても3割程度だ。「戻りたいけど戻れない」住民を差し引けばもっと低くなる。1万3千人の町だったから、戻るのはせいぜい千人だろうと言う人もいる。差し当たって原発作業員を受け入れることで復興の足がかりにするというのが市の目論見だ。寂しいけれど、これが復興の現実だろう。

 いずれにしても、震災前の小高の町に戻ることはない。

 ふれあい広場(一時帰宅者の休憩所)で福島民報の取材を受けてから、商店街を抜けて山間部に向かう。山あいの集落や田んぼは除染作業が進み、黒いフレコンバックが積み上がっている。しかし表面の雑草を刈り取っているだけのようにも見える。もっと違和感を覚えたのは、庭は草ぼうぼうで樹木の剪定もされていない農家の門口に「除染完了」の立て札を見かけたことだ。「小高区の除染は他とくらべておざなりだ」という懸念の声を聞いたことがあるけど、これで本当に大丈夫だろうか。




 僕たちは小高区と浪江町の境にある吉沢牧場に向かう。牧場そのものは浪江町に属するが入り口は小高区側にあるので出入りは可能だ。吉沢牧場、通称希望の牧場は吉沢正巳氏が「原発一揆」を掲げ、殺処分か餓死の運命にあった警戒区域内の牛たちを守り、飼育している牧場だ。現在も約300頭がここで生きている。

 浪江班とここで合流する予定だったが、倒木やなんかに行く手を阻まれ浪江町を迷走していると連絡が入る。小高班は小高班で、この近くにある母の実家に行こうと僕が言い出したことで道に迷い里山を迷走する羽目になる。まあ、とにかくなんやかんやがあり、結局は小高班だけで吉沢牧場に入ることになった。

 開拓時代の苦労が忍ばれる32ヘクタールの広大な牧場だ。青々とした牧草地に牧牛たちが茶色い点となって散らばっている。牧歌的な風景のようだが、中央に走る巨大な亀裂が震災の物凄さを語っている。こういう風景を見ると大地も生き物だなと実感する。実に不安定なものの上にのっかって人間は生きているものだなと空恐ろしくなる。

 休憩所兼集会所の小屋で吉沢正巳氏の話を聞いた。日本各地で「明日起こるかもしれない次の震災」を説いて回ったが、「我が身に降りかかるまでは他人事なんだべな」と吉沢氏は嘆く。靴を脱ぎ、泥だらけの靴下を撫で、その手を眺める。不屈の闘志家である吉沢氏だが、なんだか疲れているようにも見えた。

 出荷のできない、経済価値のない牛たちを何のために生かすのか。被曝の研究材料に活用してくれれば意味も生まれるが、政府はまともに取り合わない。体中に白斑のできた牛がいるが、大学機関が調査しても被曝の影響は認定されなかった。

 「あげくにはストレスが原因だとよ」と吉沢氏は怒りを噛み殺す。子どもの鼻血論争でもそうだったが、学者は原因がわからないと「ストレス」を持ち出すのだろう。見回したところ、牛たちはどれも毛並みも肉付きも健康そうだ。ストレスに悩んでいるようには見えない。

 小屋の外に出て、「活きのよさそうなやつを食っちまうかな」と吉沢氏は冗談を飛ばした。食べられない牛を飼うことの、酪農家としての矛盾から吐き出た痛切な冗談だ。

 牛を飼うには莫大な経費がかかる。330頭に与える一回の餌の量は約5トン(『原発一揆』サイゾー)だという。300頭でもほぼ同じだろう。売却できなければ利益はゼロだが、経費は支援によってぎりぎりまかなっている。

 吉沢牧場を後にしながら、僕らの心境は複雑だった。先の見えない現実を闘い続ける厳しさは吉沢氏にも重くのしかかっている。吉沢氏は動物愛護家でも政治運動家でもない、一個の酪農家なのだ。被曝した牛をなぜ生かすのか、答えのでない問いを日本人に向けて問い続けること、それが彼の闘いなのだ。その問いを引き受けることが彼との共闘ではないかと、僕は感じた。