「言語道断!!」
「あーあーあー」
「まだ役人はそのようなことを見たのか記録を! 世界レコードを破ったんだぞ!」
「それに関して」
「へい、安仁子」
「悲しいお知らせがあります」
「今それ言わなくて」
「兵。『黙ってて』」
「(新聞記事を見て)誤則!」
「無論、私と京浜電鉄の中沢臨川くんで何度も計測しました。しかし、22分も速いと言うのは」
「時間を測ったのは私だ。文句あるか!!!!」
「あーあーあーあー」
「ますます後には引けん。オリンピックに行き、彼らの実力を示し、汚名返上せねばならん! 見たまえ! 彼らはもう出る気満々だぞ!」
「失礼します」
「オリンピックに向けて日々トレーニングしてるんだよ。言えるか、金がないから連れていけないと彼に。私には言えない! なんとしてでもどんな手段を使っても彼をストックホルムに連れていく!!」
「校長。申し訳ありません!」
「なんで君が謝るんだね」
「いやいや。ただでさえ経済的に逼迫しているのに予算を管理するべき私が勝手に優勝カップなどを作ってしまって」
「可児くん、君という男は。怖いなあ」
「すいません」
「え、嘘でしょ」
可児が作ったの? how much? いくら?」
「先走りました! すいません」
「無駄な出費ではない。あれはまあ、いい記念品だよ、可児くん」

「失礼します!」
「入りたまえ」
「はい! 本科地理歴史科 金栗四三と申します!」
「まあそう硬くなるな。かけたまえ」
「はい!」
「いやー時間がかかってしまってすまなかったね。君もさぞかし気を揉んだだろう。座りたまえ」
「はい!」
「うん。今日来てもらったのはほかでもない、オリンピックの件だがね」
「はい!」
「晴れて、日本を代表して、ストックホルム大会に金栗四三くんを派遣することが決まったよ」
「よ!」
「スウェーデンは遠いが精一杯戦って来てくれたまえ!」
「行ってくれるな!」
「行きとうなかです!」
「なにー!!」

「座りたまえ」
「はい!」
「もう一度言うぞ、金栗くん。羽田の予選で君は25マイルを2時間32分45秒で走破し、見事優勝した。世界記録より22分も速い。見事な成績だ」
「はい!」
「君を初の日本代表選手として選抜し、来たるストックホルムオリンピックへの出場を要請する」
「はい」
「行ってくれるな、金栗」
「行けませーん」
「なぜだ!!」
「あーあーあー」
「すいません!」
「すいませんだよー、すいませんだよー、ほんとにさー平凡な記録なら私だってこんな大声張り上げやしないよねーなぜ君は! ふぅーなぜ世界記録なんか出したんだね!」
「あーすいません! ばってん」
「ばってんなんだね!」
「はい、あ、世界記録が何分何秒かもわからん。いや、そもそも羽田んあれがそぎゃん大きな大会とも知らんで、ただ十里もの距離ば自分は走れるだろうか、日頃の鍛錬の成果ば試そうと思いて…そぎゃんですか。うぉ、あー、そってああ優勝カップにローマ字でOLYM」
「PIC! オリンピックって書いてあっただろうー」
「あーはい、なんかの飾りかと思うとりました。や、ちゃんと見んといけませんね」
「そーだねー。そぎゃん大会の予選だったんだよ。羽田のあれは! まいったな。てっきりやる気で練習。今だって走ってたじゃないか」
「あ、あーや、違います。新か足袋ができたけん」
「足袋」
「はい、播磨屋さんが作ってくれました。もう嬉しゅうて、早う足に馴染むこつ走っとったとです。はははは」
「なー笑うしかないよ」
「で? オリンピックとはなんですか?」
「えー」
「あ、座ってください」
「ああ。そこからかね」
「ずっと嘉納校長は、それをずっと訴えて来たんだよ」
「オリンピックはスポーツと平和の祭典で」
「スポーツなどくだらん」
「なにー!」
「文部省のお役人や政界財界の方々に何年もかけて!」
「うわーそぎゃん立派な大会ならなおのこと無理です」
「違うんだよ、金栗くん。立派な大会ではあるんだけれどもあー『何と言ったらいいか』、インターナショナルなアマチュアスポーツと平和の祭典なんだ。I'm sorry 難しいか」
「見たまえ! (ポスターも見せて)日の丸も書いてある」
「裸で」
「裸で走れというのではない! 言葉も文化も思想も違う国の若者が互いを認め合い、技を競い合うんだ」
「負けたら切腹ですか。はー!それだけはお許しください!」
「金栗くん、聞きたまえ」
「あ、あ、あ、あ、羽田では幸運にも勝つこつがてできました。ばってん、国際大会など無理です。自信のなかです。行けば『勝ちたかー』って思うし、また勝たんと期待ばしてくれる国民が許してくれんでしょう。生きて帰れんとです」
「そんな奴かー! 金栗くん君は! そんな奴だったのか!」
「すいません!」
「なんと保守的な。がっかりだ。まったくがっかりだ。がっかりだ」

「敬愛する治五郎先生の機嫌を損ねてしまった四三くん、かたや三島家の御曹司、弥彦は」
「またまた」
「いや。出ませんよ。僕は、出ません」
「予選の時も君そう言って結局走ったじゃないか」
「あれは審判員として競技を見ているうちに闘志が」
「またまた。最初から走るつもりで…」
「今回は本当に出ません」
「よーし、皆まで言うな三島くん。じゃあストックホルムも審判員として連れて行けるように」
「ストックホルムへは行きません」
「なにー!! 君、本気かね」
「今年は帝国大学の卒業年です。たかがかけっこごときで学校休んでいたら落第してしまいます」
「かけっこではない! 短距離走だ。100メートル、200メートル、400メートル、3競技の代表として」
「文部省のお偉いさんからも釘を刺されましたんで」
「三島くん」

「おりしも清国では革命派の反乱により、ラストエンペラーこと、皇帝溥儀が退位する辛亥革命が勃発。1200年以上続いた皇帝制が崩壊して、清国は大混乱。国からの援助も途絶え動揺する学生に対し」
「戻ってはならん!今戻れば必ずや君たちの身に危険が及ぶ。君たちは祖国の未来のために私の元に留学して来た。それを忘れてはいかん!」
「『しかし生活費すらままならん』」
「学費については心配するな!」
「出た」
「外務省に一時立て替えを交渉しよう。それでも無理なら校長の私が全額負担しようではないか! 君たちはよくやっている! 羽田予選の会場設営のおり、へへへ、泥まみれになって、みんなよく働いてくれた! 金は私が出す。諸君は何にも心配するな、いいな!」
「うぉー!」
「嘉納校長の援助を受け、100名を越える学生の大半が日本に留まる決意をしました。この時の借金数億円。嘉納氏はこれを生涯返せなかったそうです」

「失礼します! 失礼します! 失礼します!」
「入りたまえ」
「はい!」
「ああ、この間はすまなかったな。少々激昂してしまって。はははは、かけたまえ」
「はい」
「お、やってるね。相変わらず。それは」
「ああ、これはこれはそのー返しに来ました」
「殴られるのかと思ったよ。ふふふ。まあ、一旦置こう」
「はい」
「座りたまえ。座らない? そうか、よし。オリンピックの件、改めて協議したが、みんなどうしても君に行って欲しいそうだ」
「そぎゃんですか。ばってん」
「我が国の運動競技は欧米各国に比べ遅れをとってる。マラソンにこそその活路がというのが体協の総意だ。ふ、学生が先頭に立って、ふ、国民の体育熱を煽るんだ。日本人とて世界に通用するんだと、奮い立たせるんだ」
「ばってん」
「負けても切腹はせんでいい。ふ。勝ってこいと言うのではない。最善を尽くしてくれればいいんだ」
「時を置いて冷静になったのか、金欠で力が入らないのか、ライトマンの口調はいつになく柔らかでした」
「IOC会長はピエール・ド・クーベルタンと言ってね、紛争の絶えないヨーロッパにおいて、古代オリンピックを復活させ、スポーツによって平和を唱えたんだよ」
「はーヨーロッパの嘉納先生のごたる方ですなあ」
「へへへ、そうかね。へへへ。かの勝海舟先生が日米修好通商条約を結ぶに際し、アメリカに渡った時、日本人の使者はちょんまげに羽織袴、腰には刀をぶっ刺してた。そりゃあ山猿と笑われただろう。たかだか50年前の話だよ」
「ばってん」
「何事も最初は辛い。自信もなかろう。しかし、誰かがその任を負わねば革新の時は来ない。スポーツも然り。ここで誰かが捨て石となり、礎にならなければ次の機会は4年後にしかやって来ないんだ。金栗くん、日本のスポーツ界のために黎明の鐘となってくたまえ! 君しかおらんのだよ」
「行きます」
「はー。そうか」
「金栗は行きます! 行って精一杯走って来ます! 先生ー!」
「えー」
「勝敗のみにこだわらず、出せる力ば出し切って来ます!」
「よし! 決心してくたな」
「はい」
「参ったな」
「はい?」
「いやいや、頼んだぞ、うんと練習に励んでくれ!」
「はい! 失礼します!」
「うん! あ、金栗くん」
「はい」
「渡航費と滞在費の件なんだが」
「はい!ありがとうございます!」
「おお、うん。これはあくまでも提案なんだが、君が出すっていうのはどうかな」
「はい?」
「いや、我が体協がちべんするというのが前提だったが、考えてみればそれが君を追い込んでいるんではないかねー。君が君の金でストックホルムに行って思う存分走るのであれば勝とうが負けようが君の勝手。気楽なもんだ。国を背負うだの、負けたら切腹だのと頭を悩ませることもない。レースに集中できる。違うかね」
「そぎゃんですか。はーそぎゃんですねー」
「なー、名案だろう、金栗くん」
「はい」
「よーし! 行ってこい!」
「はい! 行ってまいります!」
「うん。なんか情けないな」

「耳で覚えちゃだめよ。噺はね、足で覚えるんだい」
「足?」
「お前さんなんのために毎日日本橋と浅草行ったり来たりしてるんだい。ほら」
「へい。そん時はね、ピンと来ませんでしたけど、後でわかりました。浅草から日本橋、実際に歩いてみねえとねえ、落語の中の人間の気持ちなんてわからねえって言いたかったんでしょうな、師匠は。え、そいで車引かせたんです」

「それ車屋じゃないですか」
「弟子だよ。弟子はな背中で聞くんだよ、師匠の芸を。お前もここ行ったり来たりしてんだから小咄のひとつも教えてやるか」
「ああ、そういうのはいいんです、僕。僕の知りたいのはドキュメントなんです」
「え」
「親父とお袋がどうやって知り合って僕が生まれたのか。浜で財布拾ったり、蟹が縦に歩いたりとか、そういうファンタジーは興味ないんで」
「ファンタジー」
「でもあの噺は面白かったです。オリムピック噺」
「私も。またあれ聞きたい」
「そうか」

「面白いって顔してないじゃんよ」
「えーいやや、おかしいな(ハガキを出して)志ん生の『富久』は絶品って書いてあるのにな」
「圓生じゃねーか? おれは満州で富久やった覚えねえもんな。あんちゃんの死んだお父っつぁんに会った覚えもねえしな」
「いやいや志ん生、志ですよ、志ん生の富久が絶望って書きたかったのかな」
「わざわざそんなこと伝える? 死ぬ前にハガキで?」
「死ぬ前に、おい」
「じゃあやっぱり志ですよ」
「日本橋かね芝かわかりゃいいんだけどな。日本橋と芝だよ」

「日本橋か芝?」
「うん。もとの富久は浅草から日本橋を行ってこいする噺なんだよ。ところが志ん生が勝手にアレンジしてね、浅草から芝に変えたんだよ。距離延ばしたんだな」
「はー知らなかったなー田畑さん落語詳しいんですねー」
「なんで延ばしたんだろうね」
「さあねーそんなに走るバカいねえからじゃねーか。ま、どっちにしろおれは感心しないね。落語は圓生に限る」
「芝の久保町辺りじゃねーか」
「なんだよ。これ志ん生じゃねーかよ」
「だ、旦那、見ました足袋で走ってましたよねー」
「それがどーした」
「いたんですよ、芝にもさっき、足袋で走ってるおとっつぁん」
「流行ってんのかねー」
「いや、おんなじ人、おんなじ人!」
「うるさいな落語じゃあるまいし、芝から日本橋まで走るバカどこにいる!」
「だって」
「進めよ、おい! え?」
「いたんですね、走るバカ。浅草から芝まで、とにかく毎日四三は走り続けたと。芝まで行ったら折り返し、日本橋・浅草方面へ」