フランチェスカがジュネーブを去って行った
日のことは忘れることができません。
村人たちとフランチェスカの一家が別れの挨
拶でざわめく中、兄とフランチェスカは言葉少
なに向き合っていました。やがて、兄は小さな
箱を取り出して、フランチェスカにそっと渡し
ました。箱の中に入っているものを私は知って
いました。兄が工房で作ったペンダントです。
それはマルタ十字と、十字の下で揺れる鳩の銀
細工でした。フランチェスカは持っていた袋の
中にそれをしまって、大事そうに左手でその袋
を抱き締めました。
やがて、ロバに曳かれた荷車が動き出すと、
荷車の端に腰掛けたフランチェスカは兄に小さ
く右手を振りました。しかし、その手を振り続
けてはいられませんでした。溢れてくる涙を何
度も拭わなければならなかったからです。兄は
その姿を瞼に焼き付けるかのように、フランチ
ェスカが見えなくなるまで、ただじっと見詰め
ていました。
この後に続いて起こった事を考えると、あの
時、それが無謀であろうと何だろうと、フラン
チェスカと一緒に兄を行かせてやれば良かった
のかもしれないと、後になって誰もが自分の胸
に問い掛けたはずです。
例えそれが、兄マルチェロを永久に失うこと
を意味したとしても。
やがて、ジュネーヴの街にも凶兆が現われま
した。
一六八五年、ルイ十四世がナントの勅令を廃
止、フランスではカトリック以外の信仰が禁止
されました。ルイの築いた絶対王制の前に、フ
ランスのユグノー教徒たちは為す術も無く弾圧
に曝されることになりました。改宗を強要する
そのやり方は乱暴を極め、ユグノー教徒の家に
竜騎兵が扉を打ち破って乗り込み、改宗するま
でそこに居座り、破壊と暴力を振るったといい
ます。多くの者が心ならずも改宗する一方、信
仰を守るために祖国を捨てる人々もいました。
ルイはユグノー教徒の出国を禁止しましたが、
信仰の自由を求め、命懸けで国境を越える者は
後を断ちません。運悪く国境で捕らえられた者
は、そのままガレー船送りとなったり、投獄さ
れたりしました。ジュネーブにも、フランスか
らの難民が押し寄せ、街はその対応に追われて
いました。
ジュネーブ共和国を含め、近隣のプロテスタ
ント国家は、ルイが宗教問題にかこつけて侵略
戦争を仕掛けてくるかもしれないと警戒を強め
ていましたが、私たちはそれでも、これはフラ
ンスの国内問題であると考えていました。
カトリックとプロテスタントの対立から始ま
った三十年戦争では、実に数百万人が犠牲とな
っています。その当時を覚えている人の言葉を
借りれば、荒廃の極みに達したヨーロッパは、
それこそ滅亡寸前の様相を呈していたといいま
す。宗教で戦争を起こしたなら、どちらかが絶
滅するまでそれが続くかもしれないということ
を世界は身を持って知ったのです。いかにヨー
ロッパの覇者となったルイと言えども、再び宗
教戦争を起こすとはとても考えられないことで
す。もはやプロテスタントを地表から一掃する
など、不可能な話なのです。
その考えは確かに間違ってはいません。
しかし、相手がヴァルドなら話は別でした。
ルイから見れば、ヴァルドはプロテスタントで
さえ無く、ただの異端に過ぎないのです。
一六八六年四月、恐れていたことが現実とな
りました。フランスとサヴォイアの連合軍がピ
エモンテの谷に襲い掛かったのです。かっての
大迫害から、やっと立ち直ったぱかりのヴァル
ド派の人々は、世界最強と言われたフランス陸
軍との勝ち目の無い戦いを強いられることにな
りました。
ヴァルドを取り巻く世界の状況もまた絶望的
なものでした。
一六五五年にピエモンテの虐殺が起こった時、
ヴァルドを救うために世界中からプロテスタン
トたちが応援に駆けつけました。しかし、今や
フランスのユグノーたちは自分たち自身が迫害
に曝され、その命運が危ぶまれる状態です。英
国の清教徒、オリバー・クロムウェルの介入に
よって、ピエモンテの虐殺は終わりましたが、
その英国はどうでしょう。一六六〇年、英国で
王制復古が成り、今やカトリックの国王ジェー
ムズ二世が君臨しています。オリバー・クロム
ウェルは反逆者と貶められ、墓を曝かれた挙句、
遺体のまま吊し首にされました。その後、切り
取られた首は晒しものになっています。
もう、ヴァルドと共に戦ってくれる味方は、
世界のどこにもいなかったのです。
結果は火を見るより明らかでした。福音の谷
のヴァルド派は三日で壊滅しました。
以前、祖母がお伽話の中で、悪の魔女になぞ
らえた、ブルボン家出身のサヴォイア公妃クリ
スティーヌ・マリー・ド・フランスが果たせな
かった異端撲滅の夢を、甥であるルイ十四世が
実現したことになります。
ルイ十四世、――地上における神の代理を名
乗るその男は、一体、どんな人間なのでしょう。
その男は本当に神の如き人物なのでしょうか。
何の罪も無い人々を虫けらのように踏みつぶし、
平然として顧みることもない男。
しかし――
その虫けらの中には、あのフランチェスカが
いるのです。