アルプスの谷 1641 -34ページ目

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 
  
  福音の谷を奪われ、ジュネーブのヴァルドた

ちは絶望と怒りで大混乱に陥りました。例え異

郷の地に生まれようとも、ヴァルドにとって福

音の谷は心の拠り所、いずれはそこに戻ること

を夢見ていたのです。

  ジュネーブの街はフランスからの難民たちに

加え、今回の迫害への対応を訴えるヴァルドた

ちで喧噪の坩堝と化していました。ジュネーブ

議会では、ヴァルドの代表団がフランスやサヴ

ォイア公国へ迫害を止めるよう、使節団を送る

交渉に当っていました。サン・ピエール大聖堂

前の広場は、事件の詳細や谷にいた親類や友人

たちの消息を求め、右往左往する人々で埋め尽

くされました。兄や祖母は勿論、私もその内の

一人となって、事件の詳しい様子を求めました。

しかし、どんなに必死になってフランチェスカ

の消息を求めようとも、何の手掛かりも得るこ

とはできません。谷から生きて脱出できた者は

ほんの一握りしかいないのです。私たちは漸く

そのひとりに話を聞くことができましたが、分

かったことはただひとつ、もうその谷にヴァル

ドはひとりも残っていない、その谷にいたヴァ

ルドは、それが子供であれ、女であれ、老人で

あれ、殺されたか囚人になったか、そのどちら

しかしかない。それだけでした。「例え囚人に

なっていたとしても、長くは生きられないだろ

う」話をしてくれた人は悲しそうに首を振りま

した。

  
  「あんな恐ろしいことが再び起こったなんて」

  自分自身の辛い体験を呼び起こされ、祖母は

何日も泣き続けました。両親や私たち兄弟の間

では、今度のことを口にするのは誰もが用心深

く避けていたものの、天井から髪の毛一本で吊

されたダモクレスの剣のように、いつ何時それ

が頭の上に落ちてくるのか、一瞬たりとも気を

抜くことができませんでした。
  
  兄は激しい怒りを胸の内に抱え、カトリック

教徒である父は勿論、母さえも避けるようにな

りました。父もあえて刺激しないように気を遣

ったのでしょうか、遠方の仕事に出かけたまま、

家を不在にすることが多くなりました。やがて、

兄は祖母の家に留まって、両親のいる家には戻

らなくなってしまいました。私はこの断絶を何

とかしようと、両親の家と祖母の家を行ったり

来たりしましたが、結局の所、私にできること

など何も無かったのです。

  一六八八年の暮れ、投獄されていたヴァルド

たちが釈放されるという知らせが届きました。

サヴォイア公国に派遣されたスイス盟約団が粘

り強く交渉を続けた結果、生き残ったヴァルド

派をジュネーブで引き取ることにサヴォイア公

が同意したのです。谷に戻ることはできないと

はいえ、絶望の暗闇に差し込んだ一筋の光に、

ジュネーブのヴァルドたちは一時、安堵に胸を

なで下ろしたものの、後に続いた知らせは心胆

を寒からしめるものでした。

  投獄されたヴァルドたちは八五〇〇人。しか

し、釈放された者は三九〇〇人足らずしかいま

せん。苛酷を極めた監獄生活に屈し、半数以上

が既に獄死していたのです。しかも、釈放その

ものが迫害の総仕上げともいうべきものでした。

  彼らは着の身着のまま冬山に放り出されまし

た。ヴァルドたちは徒歩で真冬のアルプスを越

え、ジュネーブを目指したのです。行く手に待

ち構える急峻な山を乗り越え、雪に閉ざされた

隘路を何日も掛けて踏破するなど、まったくの

自殺行為です。この時点で、あらゆる希望を失

い、亡命を諦めて改宗した者たちもあったもの

の、約三〇〇〇のヴァルドたちは信仰を守って、

試練に挑みました。


  栄養失調と病気で弱った身体で雪を掻き分け、

夜は洞窟や岩陰に身を寄せ合いながら、地獄さ

ながらの行軍は一ヶ月に及びました。彼らの通

った跡には、動けなくなった人の身体が不吉な

道標のように続きました。子供を抱いたまま蹲

(うずくま)る母親、杖をついて立ったまま息絶

えた老人。遺体は葬られることもなく、その場

に凍り付いていきました。ようやくレマン湖が

避難民たちの視界に入った時、その数はわずか

二七〇〇人にまで減っていました。