第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第2節 アンジェラ(5) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

  
  
   
  この時を境に勃発した母と娘の闘いは、回を

重ねる毎に激しさを増していきました。時が解

決してくれるのを待つという知恵が二人にあっ

たのなら、事態はこうまでこじれることは無か

ったかもしれません。しかし、売り言葉に買い

言葉で、お互い、心にも無いことを口走った挙

句、取り返しのつかないことが起こってしまい

ました。

「カトリックの人が、みんな悪い人みたいに言

うのはやめてよ! そんなのおかしいでしょ。

一体、世界にどれだけカトリック教徒がいると

思ってるの」

「お前は知らないのよ! あの人たちは自分が

正統でなければならないと思っている。それを

守るためならどんな恐ろしいことでもする。彼

らが善良そうに見えるとすれば、それはただ、

何も考えずに自分たちの正当を信じ込んでいる

からなのよ、自分が間違いを犯しているかもし

れないと疑うことを知らないからなのよ! 私

も昔はカトリック教徒だった。だから分かる、

分かるのよ」

「母さんはどうして自分は間違ってないって分

かるの? 私たちが総て正しいってどうして分

かるのよ!」

「少なくとも、私たちは教義が違うからという

理由で、人を生きたまま焼き殺したりはしない。

しかし、カトリック教会は数百年に渡ってヴァ

ルドを迫害してきた。見つけ次第、虫けらのよ

うに殺してきたのよ。何をどう考えればカトリ

ック教会が正しいなんて思えるの」

「そんなことするのは一部の人たちだけよ。プ

ロテスタントだって、総ての人が清廉潔白だと

いうわけじゃない。セルジュはカトリック教徒

でも、ヴァルドである私のことを助けてくれた

わ。カトリックだからとか、プロテスタントだ

からとか、そんな区別で人を見ることが間違っ

てる!」

「セルジュがカトリック教徒だから悪人だと言

ってるわけじゃないのよ。だからこそ、その人

の魂を救ってあげる必要があるの。誤りを正し

てあげる必要があるのよ」

「そんな言い方やめてってば!

  私たちの信仰を彼に押しつけようなんて考え

るのはやめて。カトリックの人たちは私たちの

ことをプロテスタントとさえ見ていないのよ。

どうして私たちだけがこんなに特別なの? 私

たちが間違っているのかもしれないじゃない、

だから迫害を受けているのかもしれないじゃな

いの」

「何ですって! もう一度、言ってみなさい」

  立ち上がった祖母は母の頭を掴んで、テーブ

ルに押しつけました。

「痛い! 母さん、離して」

「いいえ、そんな馬鹿なことしか考えられない

ような頭なら潰れたって構わない、お前を生む

ために、母さんは愛する人たちの倒れた身体を

乗り越えてきたんだ。お前の父さんは私たちを

助けるために命を捨てたんだ。そんなことも分

からないのなら、こんな頭、潰れてしまった方

がいいんだよ!」

「痛いってば!」

「それなのに、お前は、間違っているのは私た

ちの方かもしれないと言う。私たちのために犠

牲になった人たちにそんなことが言えるのか、

お前はそんなことが言えるのか!」

  祖母の手に一束の髪を残し、母は必死で祖母

の手を振り払いました。

「少しは私の話も聞いてよ!」母はテーブルを

両手で叩いて叫びました。「人に自分の考えを

押しつけないでよ、私は母さんの操り人形なん

かじゃない。私は自分の都合で誰のことも変え

ようとは思わない。今のままでいい。このまま

でいいのよ」

「それなら、彼に会うのはやめなさい。います

ぐジュネーブを出てピエモンテに帰りましょう。

福音の谷に行けば、神様がお前を救ってくださ

る。そんな男のことはすぐに忘れるわ」

「嫌よ、私はこのままでいいって言ったじゃな

いの。どうして分かってくれないの? 私はジ

ュネーヴで暮らしていきたい。見たこともない

山奥の谷になんか行きたくない!」

「お前、よくもそんなことが……」祖母は母の

首を掴んで、テーブルから引き離し、戸口の方

へ引きずって行こうとしました。

「母さん、やめて!」

「お前なんか私の娘じゃない。出て行って!

  いますぐここから出て行け!」

  戸口で何とか踏ん張ろうとする娘を、祖母は

夜の闇の中に突き飛ばしました。そして、押し

出された母の鼻先で扉が大きな音を立てて閉ま

りました。

「母さん、開けて!」

  母は扉を拳で叩きましたが、扉には閂(かん

ぬき)が掛けられ、もう中からは何の物音も聞

こえてはきません。

  母は言いようもない怒りの気持を抱いて、し

ばらく目の前に立ちはだかる厚い木の扉を見詰

めていましたが、やがて踵を返し夜の闇に向か

って歩き始めました。溢れる涙が止まることは

ありませんでしたが、同時に心は軽く、どこか

幸福な気持さえ感じながら。