第3部 パリ、毒薬 / 第14節 依頼者たち(3) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

  

  

  
  鬱々としていた私の部屋の扉を下女のデニが

叩いた。

「伝言を預かりました」

  その伝言を見た時、不安に苛まれる時が終わ

りを告げたことを知った。

  
  『お願いです、私には貴方の助けが必要なの

です。マリアンヌ』

  
  マリアンヌに会えるその時まで、自分は彼女

と会ってどうするのだろうと考え続けていた。

レナール夫人の召使いは、マリアンヌがラ・ヴ

ォワザンの所からやってきたと言う。しかし、

あの男がそう言ったからといって、それが真実

だということにはならない。当時のパリは猜疑

心に満ち満ちて、根も葉もない噂話で溢れてい

た。どんな形でも、誰かが死ねば、すぐに毒殺

を疑われるような御時世だったのだ。

  しかし、マリアンヌがラ・ヴォワザンと関係

があるというのが本当だったとしたら?

  そうなればマリアンヌは拘束され、拷問に掛

けられるかもしれない。あのマリアンヌが拷問

に耐えられるはずはない。最悪の結果が目に見

えるような気がした。マリアンヌのもとに急ぎ

ながら、私は自問自答を繰り返していた。

  
  自分はマリアンヌを逃亡させたいと思ってい

るのだろうか。

  そうするかもしれない。

  マリアンヌが本当のことを話してくれるのな

ら。

  
  それはパリ郊外の木賃宿の一室だった。ドア

をノックすると、ゆっくりとドアが開き、陰の

中に女の顔が浮かび上がった。夢にまで見た人

の面影に、ここに来るまでの心の葛藤が吹き飛

ぶ思いがした。女は黙って頷くと扉を大きく開

いた。その時、私が顔に浮かべていた笑みは、

一瞬にして消え去った。思っていたよりも状況

が悪いことがすぐに分かったからだ。

  私が部屋に入っていくと、マリアンヌは私か

ら顔を逸らせ、そのままの体の向きで暗い部屋

の奥に下がっていった。

  そのただならぬ様子に、私はマリアンヌに駆

け寄ってその体に手を回した。目の前にいる彼

女が幽霊などではなく、実在していることを腕

に感じたかった。マリアンヌは私の腕から逃れ

ようと身をよじったが、それは力のない形ばか

りの抵抗でしかなかった。

「どうしたというのですか、どれほど貴方のこ

とを心配したことか――」マリアンヌの顔に手

を当てて自分の方を向けさせた瞬間、言葉が止

まった。彼女の顔の右側は殆ど片目を塞ぐほど

に醜く腫れ上がり、内出血がどす黒い跡を残し

ている。

「一体、これは……」

  私の言葉を遮るように、マリアンヌはわっと

泣き出した。

「暴漢に襲われたのです。叔母が魔女たちと契

約を交わして夫を毒殺したなどという無責任な

噂が巷に乱れ飛んでいるんです。私までもが魔

女たちと関係があると疑われています。叔母が

官憲に拘束された後は、召使いたちまでが邸の

略奪に加わる始末で、私はお話しすることもで

きないような乱暴をされそうになりました。し

かし、何とか屋敷から逃げ出して、身を隠した

んです」

  私が呆然として手を緩めると、マリアンヌは

もう立っていることもできずに、傍の椅子に崩

れ落ち、テーブルの上に顔を埋めて泣きじゃく

った。テーブルの向かい側には、もうひとつの

椅子があった。私はそこに腰を下ろして、マリ

アンヌの手を握った。

「私はどうすれば……」

「お願いです。私を連れて逃げてください。サ

ヴォイアに連れて行ってください。もうフラン

スに私の居場所はありません。魔女たちに関係

があると疑われている限りは、家族の所にも帰

れないんです」

  私はマリアンヌの言葉に同意するしか無かっ

た。他にどうすることができたというのだろうか。

  マリアンヌは私が頷くのを見て、やっと落ち

着きを取り戻した。

「取り乱してごめんなさい。私、きっとひどい

顔をしていますよね、顔を洗ってきますから、

少し待っていてくださいね、今、お飲み物を差

し上げますから」

  そう言って、マリアンヌは隣の小部屋に入っ

て扉を閉めた。

  部屋にひとり取り残された私は、改めて周囲

を見回した。

  殺風景な部屋だった。暴行から命からがら逃

げてきたという言葉の通り、私物のようなもの

は全く無い。ベッドとテーブル、それに二脚の

椅子があるだけだった。一体こんな所でどうや

って数日を過ごしたというのか、憂鬱な想像を

巡らせながら眺めていると、何の装飾も無い部

屋の中に、ひとつだけ変わったものがあること

に気が付いた。それは窓枠の所に置かれた小さ

な置物だった。私は席を立って、それを手に取

った。置かれた場所からして、もともと部屋に

あったものだとは考えられない。間違いなくマ

リアンヌがそこに置いたものだった。

  
  それはミカエルだった。

  掌に収まるほどの大きさの、木製の大天使だ

った。

  
  私は魅入られるようにそれを眺めた。その彫

像が語り掛けてくるものに耳を傾け、その存在

が意味するものについて全霊を傾けて考える内

に、自分が巻き込まれている事件の全貌の、そ

の微かな輪郭が闇の中の燐光のように浮かんで

きた。

  部屋に戻ってきたマリアンヌは、窓の傍に立

っている私の所に何の疑いも持たずに近寄って

きた。私は振り返って彼女をそっと抱きしめた。

そうすると彼女の顔の殴打の跡が嫌でも目につ

いた。それは単純に殴られてできた傷には見え

なかった。どす黒い内出血の跡は、顔から首の

後ろにまで長く伸びて、擦り傷となって不意に

途切れていた。私はその傷に大天使ミカエルの

像をそっと押し当てた。

  彼女を抱き締める腕に我知らず力が入ったの

だろうか。耳許で彼女が安堵の溜息を洩らすの

を感じた。

  私は彼女を抱き締めながら、胸の内で叫んで

いた。

  
  ぼくたちはどうしてこんな形でしか出会えな

かったんだ。

  どうして君は嘘を言い続けなければならない

んだ。

  許してくれ、マリアンヌ。

  何もかも終わりだ。

  君のことを愛していたのに。