第3部 パリ、毒薬 / 第14節 依頼者たち(2) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

  

  
  主を失ったレナール夫人の瀟洒な館は、心無

い召使いたちが既に略奪を働いた後なのだろう、

早くも荒廃の影が漂い始めていた。やりきれな

い思いを抱えながら館に入っていくと、債権者

とおぼしき見慣れぬ二人の男が、何やら小声で

商談めいた話をしている。開いていた扉から、

私が中に入って行っても、彼らは胡散臭そうな

一瞥を投げ掛けただけで、何も言われることは

無かった。

  私はホールの所で、顔に見覚えのある召使い

を捕まえた。

「君、マリアンヌ嬢がどこにいるか知らない

か?」

「マリアンヌ嬢? 一体、何のことだか……」

  男が面倒臭そうにそのまま歩き去ろうとする

ので、つい乱暴にその腕をつかんだ。

「レナール夫人の姪のマリアンヌのことだ!」

  男は自分の腕をつかんでいる私の手を非難が

ましく見ながら答えた。

「レナール夫人の姪なんて知りませんよ、そん

な話、聞いたこともありませんね。さあ、手を

放してくださいよ、こっちも忙しいんでね」

  人を小馬鹿にした態度に、胸倉をつかんで締

め上げてやりたい衝動に駆られたが、結果とし

て最も賢明だった行動を取るだけの冷静さは残

っていた。私は男の手をつかんで掌を上に向け

させ、そこに金を叩きつけたのだ。

「どうだ、これで何か思い出しただろう」

  それなら話は別とばかりに、男は下卑た笑み

を浮かべ、体をこっちに向けた。

「貴方が仰ってるのは、夫人の夜会に来ていた、

あの若い女のことなんじゃないですか? もし

そうだとしたら、あの女は夫人の親類なんかじ

ゃありませんよ。レナール夫人が何と言ってあ

の娘を貴方に紹介したのか知りませんけどね。

私たちはみんな、魔女のラ・ヴォワザンの所か

らやってきた売春婦か何かだと思っていました

よ」

  私は何か言おうと口を開いてはみたものの、

驚きのあまり言葉が出てこなかった。男は私の

慌てぶりを愉快そうに見ていた。

「おっと、売春婦は少し言葉が過ぎましたかね。

そりゃ私だってあの娘が通りで客を引くような

安い女だと思っていたわけじゃありません。外

国人の貴方がご存知かどうか知りませんが、パ

リは売春婦も超高級なのから安物まで選り取り

見取りなのでね。

  あの娘がどこへ行ったか?

  さあ、それは誰に聞いても分からないでしょ

う。もと来た所へ帰って行ったんじゃないです

か、地獄の底へでも。

  貴方、まさかあの娘に惚れてるわけじゃない

でしょうね。悪いことは言いません、さっさと

忘れてしまった方が身の為ですよ、性悪女に入

れ揚げたら、命なんか幾つあっても足りません

や。最初に知らないと言ったのも、貴方に本当

のことを言うのが忍びなかっただけなんです、

悪く思わないでくださいよ」

  男は言うだけ言うと私の前から消え去った。

  私は呆然として目の前の壁をただ眺めていた。

  
  ラ・ヴォワザンの所からやってきた?

  あのマリアンヌが?

  世界が足下から崩れ去っていくようだった。

一体、自分の周りで何が起こっているのだろう、

何かが起こっているのかを知らないのは自分だ

けなのだろうか。

  自分の中では、それでもマリアンヌを信じた

い気持ちが残っていた。少なくとも彼女が売春

婦だなどということがあるはずはない。マリア

ンヌを侮辱するような、あの召使いの言葉を思

い出す度に怒りがこみ上げた。しかし、そんな

強がりもすぐに弱気な不安に取って代わられた。

  マリアンヌの正体が他のもっと悪い何かだっ

たとしたら?

  そう思うと居ても立ってもいられなかった。

  マリアンヌが危ない。もし本当にラ・ヴォワ

ザンと関係があるというなら。逮捕されるかも

しれない。いや、もう既に逮捕されている可能

性だってある。シャンブル・アルダントの中で

何が行われているのかは誰にも分からないのだ。

  マリアンヌがどこに行ってしまったのか分か

らないまま、身も心も押しつぶされそうな数日

が過ぎて行った。その間、マリアンヌの無事を

祈って貰うために、アラン神父の所に出掛けて

行った以外には、殆ど外出もしなかった。

  マリアンヌがラ・ヴォワザンと関係があるか

もしれないなどとは、侯爵にさえも言うことは

できなかった。こんな話ができるのはアラン神

父だけだった。アラン神父は秘密を守るという

誓いのもとに告解室で私の話を聞いてくれる。

事情を知らない者が聞けば、正気を疑われるよ

うな話だったが、アラン神父はいつもと変わら

ぬ落ち着いた態度で私を受け入れてくれた。そ

れが有り難かった。