「驚かせてすまなかったが、あんたを傷つけ
るつもりは無いんだ。俺はサヴォイアのトリノ
生まれさ。お前の前任者だと言ったら、分かる
か? その顔からすると、何も聞いていないよ
うだな。やっぱりな、そんなこったろうと思っ
たぜ。
俺はサン・モーリス侯爵の外交補佐として働
いていたんだ。あんたとおんなじだよ。外交通
信士として侯爵の手伝いをする傍ら、パリの大
学にも通っていたんだ。
パリっていうのは不思議な街だよな。
五十万人が住む街なんだぜ。毎日いろんな事
が起こって大騒ぎしている内に日が過ぎていく。
パリっ子てのはだな、祭りに遅れるなって、い
つも右往左往してるんだ。ここにいると、その
内、生きることや死ぬことを真面目に考えられ
なくなるよ、明日より先のことなんかどうでも
良くなるのさ。騒ぎ疲れたら、後のことは神頼
み。一応はキリスト教徒だからな。一体、いつ
からこんな風になったんだか。
俺もいつの間にか、そんなパリの魔力に呑み
込まれていたんだよ。なんのことは無い、意思
の弱い人間でね、俺は。すぐに博打にのめり込
み、酒や女に溺れる生活が始まった。しかし、
そんなことを続けていれば、お決まりの結末が
見えている。気が付けば借金で首が回らなくな
っていた。俺が道を見誤ったのは、何もかもこ
の街のせいなのさ。
パリの大学には隠れて錬金術を研究している
グループがあった。研究と言えば聞こえはいい
が、詐欺まがいのことをしている連中が殆どだ
った。何しろ、錬金術を研究しているというと、
資金援助をしてくれる金持ちも少なくなかった
からだ。
俺は金欲しさから、このグループに出入りす
るようになった。俺がヴァナンという男と知り
合ったのは、この錬金術のグループを通じてだ
った。
ヴァナン本人は自分のことをプロブァンス出
身の貴族だと言ってる。背が高く容姿も端麗で、
最初はそんなに怪しげな人物には見えなかった。
しかし奴の本当の姿は、弁護士、医者、銀行家、
政治家までも巻き込んだ国際的な秘密結社の中
心人物だった。あのモンテスパン夫人からも知
遇を得ているという話だ。ヴァナンが俺に近づ
いてきたのも偶然なんかじゃない。俺がサヴォ
イアの人間で、公国に伝手があることを知って
たからだ。
奴が怪しげな人物だと分かるまで長くは掛か
らなかった。奴は錬金術師のグループとパリの
魔女や魔術士のグループの接点だった。あいつ
はただの錬金術師なんかじゃない。悪魔崇拝者
だった。
ヴァナンという人間の全貌を知るまでは――
知った時にはもう手遅れだったのだが――、多
少、怪しいと思っても全く気にしてなかった。
奴の役に立っている限りは、多少の金が自由に
なったからな。
その頃、ヴァナンは名家の御曹司ロベール・
ド・バシモンという男とつるむようになってい
た。ロベールは『賢者の石』の発見に魅入られ
ていて、その屋敷は浸漬窯(しんしがま)を四基
も据え付けた巨大な実験室になっていた。ヴァ
ナンはロベールに錬金術の実演をしてみせたら
しい。案の定、ロベールはヴァナンに丸め込ま
れた。
問題はここからだ。
ヴァナンは金の精製に必要な秘薬を調達する
には、トリノにいるシャトゥイという男からそ
いつを調達する必要があると説き伏せて、ロベ
ール夫妻を伴ってトリノに行った。この時のト
リノ行きでは、俺があっちこっち駆けずり回っ
て、トリノ滞在の手配をしたんだ。ヴァナンた
ちのトリノ滞在は四か月に及んだ。そして、奴
らがトリノを離れた二日後のことだ。サヴォイ
ア公が突然、死去されたのは。
すぐに毒殺の噂が立った。パリから毒殺団が
来ていたという噂も。
俺は驚愕した。
ヴァナンが付き合っている魔女の中には毒薬
を専門に扱っている者もいるということは知っ
ていた。何よりヴァナンなら――あいつならや
りかねない、と思った。
俺も事件に関わっていることが分かったら、
間違いなく拷問に掛けられるだろう。一度、疑
いを掛けられたら逃げられるはずはない。生き
たまま火に焼かれるかもしれん。
俺は怖くなった。だから、そのまま逃げて行
方をくらましていたんだ。
ヴァナン一味が逮捕されたことを聞いても、
安心はできなかった。奴らはサヴォイア公の暗
殺を仄めかしている。ヴァナンが尋問で俺の名
前を出せば、すぐに俺は官憲から追われる身に
なる。捕まったら、どうやって自分の無実を証
明すればいいのか、そればかりを考えていた。
しかし、どうも物事はそんなに単純じゃない
らしい。
ヴァナンの一味にはまだ捕まっていない大物
がいる。
そいつは悪人たちの間に見えない糸を張り巡
らし、哀れな犠牲者が網に掛かるのをじっと待
っている毒蜘蛛のような男だった。自らをギョ
ームと名乗っていたが、恐らくはそれも偽名だ
ろう。
俺自身はギョームと会ったことはない。奴は
以前、錬金術の実験で、有毒ガスを吸い込んで、
瀕死の状態に陥ったことがあるそうだ。一命は
取り留めたものの、体の一部が麻痺していると
いう話を聞いたことがある。俺がギョームにつ
いて知っていることはそれぐらいだ。とにかく
恐ろしく用心深くて、殆ど表に出てくることが
無かった。しかし、錬金術師の集団を陰で操っ
ていた大立者だったことは間違いない。ヴァナ
ンやバシモンのトリノ行きでも、度々、その名
前が出ている。俺は奴を知らないのに、奴の方
はどういうわけか俺のことを知っていた。恐ら
く俺が気付かなかっただけで、素性を隠したギ
ョームとどこかで会っていたんだろう。ヴァナ
ンを通してだが、ギョームから直接、俺に指示
が来たこともある。
ヴァナンの一味が一網打尽にされたのに、な
ぜギョームだけが逮捕されないのか、それがど
うしても分からなかった。ヴァナンが尋問でギ
ョームのことだけは喋っていないとも考えられ
るが、あのヴァナンがそんな義理立てをすると
はとても考えられん。自分が助かるためなら、
むしろ嬉々として他人に無実の罪を着せるよう
な奴だ。
不可解なことに、ギョームは逮捕されないば
かりか、手配すらされていない。
まるで、そんな男は最初からこの世に存在し
ていなかったみたいじゃないか。
それに官憲が俺を追ってこないのも不思議な
話だ。俺はサヴォイア公逝去の知らせを聞いて
逃げたんだぞ。暗殺の疑いがあるなら、参考人
として真っ先に手配されてもおかしくはないは
ずなのに。