第3部 パリ、毒薬 / 第9節 錬金術師たち | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

  
  今やパリで最も狡猾で邪悪な女となったマグ

ドレーヌの事件については、レナール夫人のサ

ロンでも人々でも噂になり始めていた。ヴァナ

ン以外にも既に多くの怪しげな人間たちの逮捕

が始まっていた。

  私がサロンで悪漢ヴァナンの話をすると、侯

爵の目論見通り、私の周りには人が群がった。

話を聞かせて欲しいと、他のサロンにも呼ばれ

るようになった。突然、社交界の人気者になっ

たようで悪い気はしなかった。少しばかり浮か

れていたかもしれないが、自分の話を聞きたが

る者たちの間に怪しい人間がいないか、気を付

けていたつもりだ。しかし、誰もが同じ野次馬

のように見えて、自分には何の区別も付かなか

った。

「それではヴァナンのことをお話しましょう」

あちらこちらのサロンに呼ばれた私は幾度も同

じ話をしたお陰で、決まり文句となった口上で

話を始めた。「しかし、この極悪人の物語は未

だ捜査中の事案ゆえ、ここで耳にしたことはど

うぞ他言無用に。」

  
  「国際的に網を張る犯罪組織の中心にいた毒

蜘蛛、ヴァナンは毒殺魔マグドレーヌ・ド・ラ

・グランジェの一味として、一六七七年十二月

五日、当局の急襲を受け、仲間たちと共に逮捕

されました。

  ヴァナン一味の中で最初に注目を浴びたのは、

ロベール・ド・バシモンとその妻マリーです。

というのも、マリーの最初の夫は不審死を遂げ

ており、続けざまに亡夫の母親や女兄弟も死亡

したばかりか、マリー自身が通貨偽造の疑いま

で掛けられているからです。

  マリーの再婚相手、ロベールは錬金術に興味

があり、何年もの間「賢者の石」を手にいれる

ことを夢見ていました。錬金術に熱中する過程

で、ロベールはヴァナンと出会ったのです。ヴ

ァナンは、自分は銅を金に変える方法を知って

いると話しました。二人で協力すれば莫大な金

を手にすることができると。そして、バシモン

夫妻の前で卑金属を「金」に変える奇跡を実演

して見せたのです。

  その方法とは――、

  最初に蠕虫(ぜんちゅう)の塊とノボロギク、

エニシダを煮詰め、そこに謎の赤い粉末をかけ

てから水分を飛ばし、残った硝酸塩に硫酸塩と

水銀を加え、山羊の皮で包みます。それから大

釜を酢で満たし、硝酸と「秘薬オイル」を加え

て煮立て、中に山羊の皮の包みを入れ、茹でる

こと数分、包みを取り出し、冷やした包みの中

に溶けた銀を加えた所、それが金となったので

す。

  バシモン夫妻がそれを造幣局に持ち込むと、

局員はそれを純金であると認め、重量に応じた

貨幣と交換しました。

  夫妻は、早速、金の製造を繰り返すために必

要な物を集めにかかりました。しかし、ヴァナ

ンは、錬金術に必要な「秘薬オイル」は、シャ

トゥイという男が持っており、シャトゥイには

「貸し」があるから、自分が頼めばそれを手に

入れられるだろう、と言いました。

  シャトゥイはプロバンス地方の生まれで、後

にマルタ騎士団に入会、イスラム教徒に戦いを

挑むも、アルジェリアの海賊船に捕らえられて

奴隷にされ、二年の奴隷生活を送ったのちマル

セイユに辿り着き、その地でカルメル修道会に

入会しました。シャトゥイはそこで若くて美し

い娘を自分の愛人として独房に監禁していまし

たが、女が妊娠したことを知ると少女を絞め殺

しました。夜陰に紛れて死体を教会の中に運び

込み、敷石を剥がして、死体を埋めている所を

偶然、巡礼に目撃され逮捕、死刑宣告を受けま

した。

  シャトゥイがまさに絞首台に上ったその時、

数人の男が現れ、シャトゥイを奪って逃げまし

た。その男たちこそ、当時ガレー船の艦長だっ

たヴァナンとその一味だったのです。シャトゥ

イは礼としてヴァナンに錬金術を教えましたが、

オイル作成の秘方だけは教えませんでした。

  シャトゥイはその当時、トリノでサヴォイア

公の白十字隊に属していました。ヴァナンとバ

シモン夫妻はトリノに赴き、そこに四ヶ月滞在

しています。その間、ヴァナンは、会うのは自

分だけが良いと言って、バシモン夫妻とシャト

ゥイの面会を拒み続けています。しかし、ヴァ

ナンは首尾良く充分な量の秘薬オイルを手に入

れたと言って、夫妻と共にフランスに戻りまし

た。しかし、ヴァナンは多額の負債だけを夫妻

に残し、そのまま姿を消してしまったのです。

  慌てたバシモン夫妻はシャトゥイと連絡を取

りましたが、シャトゥイから「秘薬オイル」の

ことなど何も知らないと告げられて驚愕しまし

た。しかし、シャトゥイの協力の申し出により、

バシモン夫妻はトリノに戻り、シャトゥイと錬

金術の実験を取り返しましたが、全て失敗に終

わり、失意のもとにリヨンに帰りました。

  その時には既に全財産を使い果たし、住居を

も追われる身となっていましたが、バシモン夫

妻はそれでもなお金の製造を諦めず、逮捕され

るまで実験を繰り返していたそうです。

  事件の中心人物、ヴァナンは卑しい身分の者

ではなく自ら騎士を名乗っています。その仲間

には内外の要人と会っていた者も少なくありま

せん。一方、男の周囲では、召使いや女地主な

ど、数多くの者が不審な死を遂げています。何

より、サヴォイア公の突然の死去は、ヴァナン

がトリノを離れた二日後のことであり、これら

の怪人たちによって国際的に張り巡らされた犯

罪網は、国内外の要人たちさえもその標的にす

る可能性を示しています。事実、ヴァナンの手

下の一人は国王ルイの暗殺計画さえ仄めかして

います。これはマグドレーヌの供述と不気味な

一致を見せているのです」



  他言無用と前置きはしたものの、瞬く間に噂

が広がっていったのは、警視長官ラ・レニーや

サン・モーリス侯爵の目論見通りだった。



  私はあちらこちらのサロンに呼ばれ、ヴァナ

ンの話をした。マリアンヌを伴って、夜のパリ

を辻馬車で走り回ることになるなど、ほんの一

年前には考えられなかったが、悪い気分はしな

かった。愚かなことではあるが、私は人々の注

目を浴びて舞い上がり、どんどん饒舌になって

いった。舞い上がれば舞い上がるほど、落ちた

時の衝撃は耐え難いものになる。しかし、その

時の自分にはそれを想像することができなかっ

た。

  ヴァナンの話を聞いた人、或いは聞きたがる

人々のことは、ラ・レニーや侯爵に逐一報告し

た。その殆どは毒にも薬にもならない野次馬た

ちだったが、既に名の知られていた文芸サロン

では、セビィニエ夫人、ラ・ファイエット夫人、

ラ・ロシュフコー公爵といった文筆家たちにも

会った。彼らは火刑裁判所が設置されることに

対して強い懸念を感じているようだった。毒殺

魔ブランヴィリエ侯爵夫人の処刑をも間近に見

ていたというセビィニエ夫人は、娘に宛てた手

紙で不吉な予言をしている。

「処刑後、夫人の死体は焼き尽くされ、その体

は灰となって空中に漂いました。私たちは知ら

ずにその灰を息と一緒に吸い込んでいるのです。

このことが私たちに大きな害悪をもたらすこと

になるかもしれません」

  

  しかし、聞き手の中には確かに問題を感じる

者たちもいた。彼等らは一にも二にもヴァナン

が審問官たちに何を話したのかを知りたがった。

「次に誰が逮捕されるのか」が彼等の最大の関

心事だったのだ。明らかに、自分にも司直の手

が及ぶのではないかと考えている者たちだった。

  私の慎重さを欠いた行動は、招かれざる者を

引き寄せ始めた。そして、いつの間にか、自分

が事件の中心に投げ込まれていることに気が付

いた。
  
  カトリーヌ・モンヴォワザン――、

  通称ラ・ヴォワザンという女と出会った時に。