セヴィニエ夫人の手紙 (仏蘭戦争) (1) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 
 
 セビィニエ夫人が仏蘭戦争のことを書いた手紙、三通を御紹介します。
 
 仏蘭戦争は、侵略の野心を露わにしたフランスに、他のヨーロッパ諸国が
 
猜疑の目を向ける端緒となりました。これが後に対フランス包囲網とし
 
てのアウクスブルク同盟結成に繋がっていきます。
 
 フランス人であるセビィニエ夫人は、この戦争のどこに正義があるかまで
 
は考えていないようです。一通目では、世界最強のフランス陸軍が弱小国家
 
だったオランダをあたかも赤子の手を捻るが如く打ち負かす様を嬉々として
 
語っているばかりか、仏蘭戦争を大した事件とは考えていないことが窺えま
 
す。 しかし、わずか数日にして、セビィニエ夫人の手紙に戦争が不吉な影を
 
投げ掛けていきます。
 
 文中のアイセル川とはライン川の支流にあたり、オランダ東部を流れてい
 
る川です。
 

 
 
1672年 6月 13日 (月) パリにて、娘へ。
 
[前略]
 
 (息子)のシャルルから手紙が届きました。 面白い内容なので、貴女も興味を
 
持たれるかもしれません。陛下の強運は素晴らしいもので、今後のヨーロッパ
 
では、陛下の思い通りにならないことはありません。 陛下が望みさえすれば、
 
御自身が軍の先頭に立たなくとも、周囲のものが喜んでそれを実現するのです。
 
陛下はアイセル川を、まるでセーヌ川を渡るかのような気安さで越えたそう
 
です。フランス軍が敵に与える恐怖は勝利をさらに容易にしました。 宮廷人
 
たちの喜ぶさまが幸先の良さを約束しています。 ブロンキャの言葉を借りれば、
 
朝から晩まで彼等の笑い声が絶えることはないそうです。 ひとつ、お知
 
らせしなければならないことがあります。 老ブルデイユ氏が亡くなるとすぐ、
 
モンタジエ氏が、(老ブルデイユ氏の死で) 空いた役職を義理の兄弟である
 
ローリエール氏に与えるよう、陛下にお願いしました。 陛下はこれを認めま
 
した。 その直後、マサ氏は陛下に、その役職は彼の一族が代々守り続けてき
 
たものなので、一族に返すようお願いしました。 陛下はモンタジエ氏に、ロ
 
ーリエール氏には代わりのものを用意するから、先の役職をマサ氏に返すよ
 
う仰せになりました。 しかし、モンタジエ氏は、自分としては喜んで陛下の
 
言葉に従いたいが、既にローリエール氏は公式に祝辞を受けているのでそれ
 
は不可能です、マサ氏には陛下より別の俸禄を与えては如何でしょうかと答
 
えました。 陛下は苛立ったようですが、こう仰いました。 「宜しい、それで
 
は三年だけその役職を (ローリエール氏に) 与えよう、しかし、その後はマサ
 
氏に返還され、以後は永遠にその一族が保有する」 この撤回はモンタジエ氏
 
を口惜しがらせたようです。 このことは (婿の) グリニャン氏宛ての手紙に書くべ
 
きだったかもしれませんね。 でも、気になさらないでください。二つの手紙
 
はどちらも、貴女に届くのですから。 それに、そんなに大切な話でもありま
 
せん。
 
[後略]
 
 
1672年 6月 17日 (金) パリにて、娘へ。
 
 愛する娘へ。私はたった今、悲しい知らせを受け取りました。詳細につい
 
ては私にも分からないので、お伝えすることができません。 しかし、コンデ
 
公指揮の下、アイセル川渡河中、ロングビル氏が戦死しました。 この知らせ
 
は衝撃的なものでした。 この知らせはロシュフコーさんに届いたのですが、
 
その時、私はラファイエット夫人と共に夫人の邸にいました。 他にもマルシ
 
ラック氏の戦死の報もありましたが、これらの知らせがロシュフコーさんに
 
嵐のように襲い掛るのを目の前で見たのです。 ロシュフコーさんは激しく動
 
揺し、胸の内で涙を流していました。ただ彼の強靱な性格が、人前で泣くこ
 
とを押しとどめたのです。
 
 この知らせの後、私はすぐさま他にも情報が無いか、尋ねて回りました。
 
私はポンポーヌ夫人の元に急ぎましたが、夫人は、息子のシャルルが軍に入
 
隊しているものの、今回の遠征には参加していないと私に言い聞かせました。
 
夫人によると、その遠征はコンデ公が指揮し、コンデ公自身が負傷、そして
 
小型の船による渡河で、ノージェント氏が溺死、ギトリ氏が戦死、ラ・リー
 
フィング氏とロクロール氏は負傷。この悲惨な戦闘で、他にも多くの者が命
 
を落としました。 詳しいことが分かったら、またお知らせします。
 

(次週に続く)