イタリア 地下鉄事情 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録


ミラノ 地下鉄の券売機



 ミラノ、地下鉄でのお話です。
 

 地下鉄に乗ろうと券売機の所に行くと、先客がひと組、チケットを買って
 
いる所だったので、私は大人しく後ろに並んで順番を待っていました。
 
 先客は若い三人組で、こちらに背を向けている男女、つまり真っ直ぐ券売
 
機の画面に向かっている二人と、もう一人、機械に寄りかかるように立って
 
いるため、こちらを向いている女性でした。
 
 三人は何やら早口で喋っているのですが、イタリア語なので会話の内容は
 
一切分かりません。行先のことで議論でもしてるのかなと思って、気にも留
 
めませんでした。
 
 やがて発券が終わると、こちらに背を向けていた男女は立ち去り、券売機
 
に寄りかかっていた女だけがその場に残りました。
 
 
 その瞬間、「ああ、これが……」 と思いました。
 
 
 念の入った下調べのお陰で、これから何が起こるのかがすぐに分かりました。
 
 イタリアの地下鉄の券売機には、しばしばジプシーの女がいて、頼まれも
 
しないのに観光客に切符の買い方を教え、小銭を取るという話を既に知って
 
いました。中には結構なトラブルに発展することもあるようで、券売機の所
 
で女とおじさんが怒鳴り合いをしていたという目撃談もあります。
 
 こちらとしては、既に地下鉄の乗るのも初めてではなかったので、何ひと
 
つ教えて貰う必要もなく、普通にチケットを買い進めていると、その女の子
 
──年は二十歳ぐらいでしょうか。地味ながらも普通のワンピースを着て、
 
背はすらりと高く、見方によっては美人とも言えそうな女の子──が、最後
 
にお釣りが出てきた所で、黙ってそれを指差しました。
 
 
 さて、皆さんなら、こんな時どうしますか?
 
 
 無視して立ち去る?
 
 私はそのお釣りを女の子に渡して、地下鉄の改札へと歩き出しました。
 
 その後も、地下鉄に乗ろうとして似たような場面に遭遇することがありま
 
したが、その時も持っている小銭を渡したりしていました。勿論、多額のお
 
金を渡したわけではありません。日本円でいえば数十円ぐらいの金額です。
 
あまりにあっさりお金を渡すので、相手に意外そうな顔をされることがある
 
ほどてす。
 
「お金ちょうだい」「はい」「え?」みたいな。
 

 これがいいことなのかどうか、自分にはよく分かりません。そんなことを
 
するべきではないという意見もあると思います。
 
 ひとり旅をしていると、つい人恋しくて、お金をあげてでも人の笑顔を見
 
たいという心理が働いているのかもしれません。或は、それによって優越感
 
を得たいという卑しい根性がどこかにあるのかも。
 

 
 私がお金を渡した時、女の子が礼を言ったかどうかはよく覚えていません。
 
多分、言わなかったと思います。ただ、その娘の若い女性としての自尊心と、
 
地下鉄で小銭を集めなければならない切迫感が、ぎりぎりの所で均衡を保つ
 
かのような表情が、旅行が終わってひと月たった今でも、時にふと甦るので
 
す。
 


地下鉄の改札口