ミラノ、地下鉄でのお話です。
地下鉄に乗ろうと券売機の所に行くと、先客がひと組、チケットを買って
いる所だったので、私は大人しく後ろに並んで順番を待っていました。
先客は若い三人組で、こちらに背を向けている男女、つまり真っ直ぐ券売
機の画面に向かっている二人と、もう一人、機械に寄りかかるように立って
いるため、こちらを向いている女性でした。
三人は何やら早口で喋っているのですが、イタリア語なので会話の内容は
一切分かりません。行先のことで議論でもしてるのかなと思って、気にも留
めませんでした。
やがて発券が終わると、こちらに背を向けていた男女は立ち去り、券売機
に寄りかかっていた女だけがその場に残りました。
その瞬間、「ああ、これが……」 と思いました。
念の入った下調べのお陰で、これから何が起こるのかがすぐに分かりました。
イタリアの地下鉄の券売機には、しばしばジプシーの女がいて、頼まれも
しないのに観光客に切符の買い方を教え、小銭を取るという話を既に知って
いました。中には結構なトラブルに発展することもあるようで、券売機の所
で女とおじさんが怒鳴り合いをしていたという目撃談もあります。
こちらとしては、既に地下鉄の乗るのも初めてではなかったので、何ひと
つ教えて貰う必要もなく、普通にチケットを買い進めていると、その女の子
──年は二十歳ぐらいでしょうか。地味ながらも普通のワンピースを着て、
背はすらりと高く、見方によっては美人とも言えそうな女の子──が、最後
にお釣りが出てきた所で、黙ってそれを指差しました。
さて、皆さんなら、こんな時どうしますか?
無視して立ち去る?
私はそのお釣りを女の子に渡して、地下鉄の改札へと歩き出しました。
その後も、地下鉄に乗ろうとして似たような場面に遭遇することがありま
したが、その時も持っている小銭を渡したりしていました。勿論、多額のお
金を渡したわけではありません。日本円でいえば数十円ぐらいの金額です。
あまりにあっさりお金を渡すので、相手に意外そうな顔をされることがある
ほどてす。
「お金ちょうだい」「はい」「え?」みたいな。
これがいいことなのかどうか、自分にはよく分かりません。そんなことを
するべきではないという意見もあると思います。
ひとり旅をしていると、つい人恋しくて、お金をあげてでも人の笑顔を見
たいという心理が働いているのかもしれません。或は、それによって優越感
を得たいという卑しい根性がどこかにあるのかも。
私がお金を渡した時、女の子が礼を言ったかどうかはよく覚えていません。
多分、言わなかったと思います。ただ、その娘の若い女性としての自尊心と、
地下鉄で小銭を集めなければならない切迫感が、ぎりぎりの所で均衡を保つ
かのような表情が、旅行が終わってひと月たった今でも、時にふと甦るので
す。

