第2部 「異端の谷」、第3章「ジェラルド」、第12節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「逃げるのか、戦うのか、それはあんたたち次第だ。 覚悟を決めてくれ。
俺たちを一人残らず殺すまで、奴らはその手を休めはしはない

(前節より)
 
 
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第3章 「ジェラルド」 第13節 は 8月3日 に投稿します。
  

 
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第3章 「ジェラルド」
 
 
 
12.


 

 「師よ、私たちをお導きください。 信徒たちはあなたの言葉に従うこと
 
でしょう」
 
 森の教会で静かに祈りを捧げる老人の背に向かって、ヴィートは膝を突
 
き、深く頭を垂れた。 俺とアンセルモ、エウジェニオもそれにならった。
 
 老人はゆっくりと振り向き、我々の方に向き直る。 窓から差し込む柔ら
 
かな光を浴びて、老人の白い髪とひげはそれ自体が輝くように白い僧衣の
 
上に流れ、その境は溶け合い、まるでひとつの白い影を見るかのようだった。
 
 長い迫害の歴史を耐え抜いたこの教会同様、その老人は百年を生きた賢
 
人と言われ、カトリックの司祭たちが異端審問に掛けるために血眼になっ
 
て、その存在を探していたこともあったという。
 
「話は分かった」 老師は落ち着いた声で答えた。 「この村に来たという異
 
端審問官の目的が何であれ、その話は真実だ。 異端の民カタリのことは私
 
も聞いたことがある。 その教義は独特で、我々と相容れることはなかった
 
が、反ローマ・カトリックという点では、ヴァルドと共に協力することも
 
あったという。 ――そして、彼らはローマ・カトリックの圧制に勇敢に立
 
ち向かい、ひとり残らず死んだ。
 
 我々ヴァルドもまた勇敢な民だった。 これまでも、我々を滅ぼそうとす
 
る数々の敵と戦ってきた。 が、勝ち取った権利と引き換えに失ったものは
 
少なくない。 私はこれまでも多くの若者の命が失われるのを見てきたのだ。
 
 自然の猛威に曝されても、黒死病に襲われてもなお、我々は打ち負かさ
 
れることはなかった。 しかし、わが民に与えられた数々の試練を見てきた
 
私でも、これ以上の不吉な話は聞いたことがない。 私はもうこれ以上、わ
 
が信徒の死を見ることには堪えられぬ。 無益な戦いをして、カタリのよう
 
に滅んでは何にもならぬ。
 
 我々はこの谷を去る。
 
 ローマ・カトリックがいかなる非道を行おうとも、偉大なるアルプスの
 
山や谷をこの世から消し去ることはできない。 いつの日か、時が我々の味
 
方をするまで待つのだ。 これ以上、信徒たちを死なせてはならぬ。 必ず生
 
き延びて、我々の信仰を後の世に伝えるのだ」
 
 ヴィートはその言葉に頷いた。
 
「師のその御言葉があれば、信徒たちにも反対する者はありますまい。 師
 
もまた、一刻も早いご支度をお願いします。 私はここに残って旅のご無事
 
をお祈りしております」
 
 老人ははっとして顔を上げた。
 
「わが弟子よ、ここで旅の無事を祈るとはどういうことか」
 
「私はここに残り、敵と闘います」
 
「それは許さぬ」 老人は厳しい口調で言った。 「自らが正しいと信ずる時
 
には戦わなければならないこともあるだろう。 降り掛かる火の粉は払わね
 
ばならぬ。 しかし、神は闘うことを望んではおられぬ。 主イエス・キリス
 
トが『憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、山に逃げ
 
よ』と言われたのを忘れたか」
 
「師よ、今は問答している時ではありません。 全員で逃げては、敵に追い
 
つかれた時、混乱して全滅することもありましょう。 私の最期のお願いで
 
ございます。 今すぐ信徒たちを連れて谷を離れるのです。 皆が谷を離れる
 
のを見届けるまで、私はここに残って敵をくい止めます」
 
「お前は私の言葉に背くのか!」
 
「師よ」 ヴィートはさらに深く頭を下げた。 「どうぞ私を破門し、不肖の
 
弟子のことはお忘れください。 私はこれまで、あなたに一歩でも近付きた
 
いと願ってきました。 しかし、一度、血に浸したこの両手は、もう二度と
 
元に戻ることはありません。 私は戦争で幾度となく人の命を奪ってきまし
 
た。 我が同胞を救うために今一度闘って死ぬことができるのであれば、そ
 
れは私の本望です。 私は自分の信念に従います」
 
 老人はヴィートの言葉を噛み締めるようにして聞いていたが、やがて老
 
人はがっくりと膝を突き、その頭をヴィートの前に下げた。
 
「愛する我が弟子、我が息子よ。 私を許してくれ」 と震える声で言った。
 
「私はただの臆病者なのかもしれん。 一体、私のどこにお前を非難する権
 
利があろうか」
 
「あなたが私のような者に頭を下げてはなりません」
 
 ヴィートはそのたくましい腕で老人を助け起こした。
 
「あなたには、我が信徒を導いていただかなくてはなりません」
 
 ヴィートは俺たちの方を振り向いた。
 
「みんな、話は聞いたな? 師を頼むぞ」
 
「おおっと」 アンセルモが大仰に言った。 「お前、何言ってるんだ? ひ
 
とりでカトリックの大軍と戦うつもりかよ。 自分だけいい恰好しようった
 
って、そうはいかないぜ」