第2部 「異端の谷」、第2章「ヨーロッパ1655」、最終節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「そうです。 今となっては、大変、危険です。 私はそのことをエミリオに話しました。その娘がどこにいるのか、そして、このピエモンテで何が起ころうとしているのか」
(前節より)
 
 
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第3章 「ジェラルド」 第1節は 5月11日に投稿します。
 
 
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第2章 「ヨーロッパ1655 」
 
 
6.   黒鷲ジルド
 
 
 
「閣下!」
 
「黒鷲か、ご苦労であった」
 
 居城の一室に通されると、そこにはピアネッツァ侯爵がひとり思案顔で机
 
に広げられた地図を眺めていた。 自分が部屋に入ってきても、地図に気を取
 
られている様子で、素っ気なく答えただけだった。
 
 磨き上げられた黒い甲冑と、その胸に刻まれた鷲の紋章から、いつの頃か
 
らか、人は俺の顔を見ると、ただ黒鷲と呼ぶようになった、この侯爵もジル
 
ドという俺の名前を知っているかどうか怪しいものだ。 皮肉な考えを浮かべ
 
ながら一礼した俺を見るでもなく、侯爵は自分の聞きたいことだけを尋ねて
 
きた。
 
「兵を集める目途はついたのか? 数は足りているのか?」
 
「サヴォイア公国の部隊を始めとして、フランス、ドイツ、それに、遠くア
 
イルランドからもプロテスタントへの復讐を誓った千二百の兵が到着する予
 
定です。 全体では一万五千になろうかと」
 
「一万五千か、充分過ぎる数だ・・、相手はただの農夫だ、簡単にけりがつ
 
くだろう」
 
 侯爵は地図から目を上げて、椅子に深く腰を掛けると、何を思うのか視線
 
を宙に彷徨わせた。 本当に今度の作戦のことでも考えていたのだろうか? 
 
どうせろくでもないことでも考えているのだろうと思っていたが――、そう
 
思うと確かめずにはいられなかった。
 
「地図を見て何か思案されているようですが、作戦に懸念でも?」
 
「いや、そうではない。 この征伐が終わった後に受け取る遺産のことで、横
 
から口出ししてくるうるさい奴がいてな、どうやって黙らせてやろうかと考
 
えていただけだ」
 
 やはりか、この御仁の考えなどそんなところだろう。 皮肉な考えが頭を翳
 
めると同時に、何か安心する自分がいた。 そんなくだらない考えに付き合お
 
うという気にもなれなかったので、こっちから要件を切り出すことにした。
 
「一月の終わり、トーレやサン・ジョバンニに住むヴァルドたちをアングロ
 
ーニャなどのアルプスの谷へ強制移住させる布告が出されたそうですが、ど
 
うなったのですか?」
 
「ああ、あれか・・。 約二千人が立ち退きを迫られたそうだ。 カトリック教
 
会のミサに加わりさえすれば、立ち退きが免除されたものを――奴らはどう
 
したと思う? ただの一人たりとも信仰を曲げるものがいなかったそうだ。
 
真冬に山越えをして移住するなど正気とは思えん。 命を落とした者も出たこ
 
とだろうに。 母君からうるさく言われていたサヴォイア公も、これで、さじ
 
を投げたらしい。 やっと征伐の命令が下りたというわけだ」
 
「ほう、奴ら、なかなかやりますね」
 
「なあに、征伐する方にしてみれば、狭い所に固まってくれて助かったさ」
 
「決行の日は決まっているのですか?」
 
「進軍の準備が整い次第すぐだ。 恐らく四月の中旬になることだろう、それ
 
までに準備を整えておいてくれ。 攻撃の際には、お前には私の片腕とになっ
 
て働いて貰いたい」
 
「承知しました。 ――しかし、私の方からひとつお願いしたいことが・・」
 
「何だ、言ってみろ」
 
「今度、攻撃することになるヴァルドの村々の中に、アーゾラという村があ
 
ります。 その村の攻撃だけは、私にお任せを」
 
「どういうことだ? そんな村に何があるというのだ」
 
「その村に我が黒鷲の面子に泥を塗った裏切者がいることが分かっています。
 
その男ヴィートは戦闘中に配下の者を連れて戦場を離脱し、異端の村に身を
 
落としました。 その男に思い知らせてやる時が来るのをずっと待っていたの
 
ですが、やっとその時が来たようです。 裏切者の首をはね、その村を跡形も
 
無く焼き尽くしてやるつもりです」
 
「何だ、そんなことか、好きにしろ」
 
「ところで異端の住む谷といえども、全員がヴァルドだというわけではあり
 
ません。 カトリックの住民もいるはずです。 我々はどのようにして区別した
 
ら良いのですか?」
 
 俺の質問に、侯爵は愉快そうに笑った。
 
「通った後には草一本も残らないと恐れられる黒鷲の部隊だと聞いたが、見
 
掛けに寄らず細かいことを気にするのだな。 そんな心配は必要ない。 今から
 
五百年近くも前の話だが、今回と同じように、異端に対してカトリック教会
 
が十字軍を組織したことがあるのを知っているか? 
 
 その征伐に加わった騎士も、お前と同じ質問をした。 その時、シトー会の
 
僧院長はこう答えたそうだ。
 
 それは――」
 
 
(第2章 「ヨーロッパ1655 」 完)