第1部 「告白」、第4章「審問」、第18節 (第一部完結) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
本ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
 
 
今回をもって、第一部完結です。
 
 
明日、10月28日、改めてご挨拶の記事を投稿させていただき、そこで第二部の
予定についてもお知らせしたいと思います。
お時間のある時に、お立ち寄りいただけると幸いです。
 
 
( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )
( 最初から読む )
 
-------------------------------------------------------------
第4章 「審問 」
 
 
18. 見習修道士シルヴィオ、最後の回想。
 
 
 
 処刑から一足送れて、修道会本部からの伝令が届きました。 エミリオ様は
 
行き過ぎた異端審問の――とりわけ自分の一存で教会の誤りを認め、その権
 
威に傷を付けたことで――責任を問われ、異端審問官の任を解かれました。
 
そして、どことも知れぬ異国の地へ、追放同然の赴任を命ぜられました。 エミ
 
リオ様は破門されることも覚悟していたようですが、そうならなかったのは、
 
ダミアーノ士の、最後の好意と尽力によるものであったに違いありません。  
 
しかし、エミリオ様は自らの運命には全く頓着する様子もなく、その命令を黙
  
って受け入れました。
 
 
 
 来た時と同様、私たち二人はロバに乗って街を後にしました。 マレドの修
 
道院には、この不吉な二人組を見送ろうとする者がいるはずもなく、物寂し
 
い旅立ちとなりました。 最後に振り返って見た僧院は、窓も扉も固く閉ざさ
 
れ、黒々とした影のように静まり返っていました。
 
 城門を出て街から離れるにつれ、道は人気のない荒涼とした原野に入って
 
いきました。 雲は低く垂れ込め、その陰鬱な様に言葉も無く進んで行くと、や
 
がて道の先が二手に分かれている場所に出ました。
 
 先を進んでいたエミリオ様はそこでロバを停め、私の方を振り返りました。
 
「シルヴィオよ、ここまでだ。 お前はこの道を進め。 日が暮れる前までには
 
修道院が見えることだろう。 そこで寝食を求めるがいい。 しかし、私は別の
 
道を行かなければならない。 ここでお別れだ」
 
「一体、何を言っているのですか!」 私は動転して、大声を上げてしまいま
 
した。 「私はエミリオ様と一緒に行きます。 お供させてください」
 
 エミリオ様は暫く黙っていましたが、静かに、しかし、決然とした声で言いま
 
した。
  
「だめだ。 私には私の道があり、お前にはお前の道がある。 お前は自分の
 
道を進む時が来たのだ」
 
「貴方と一緒に行くことが私の願いです。 なぜ、そんなことを言われるので
 
すか」
 
  再び沈黙が訪れました。 目深に被った頭巾に隠れたエミリオ様の、その
 
表情を伺い知ることはできませんでした。 が、やがて、ぽつりと言葉を洩らし
 
ました。
 
「ジョットーを手に掛けたのはお前か?」
 
 私は不意を付かれ、一瞬、答に詰まりました。 私はこのことを生涯、エミ
 
リオ様にも、誰にも言うつもりはありませんでした。 しかし、ここで嘘をつけ
 
ば、エミリオ様が私を見捨てるのは明白だと感じました。
 
「罪深い行いをしたことをどうぞお許しください。 しかし、自分のしたこと
 
を後悔したことは一度もありません。 道路で犬のように野垂れ死ぬ――あん
 
な奴には相応しい最後です。 ジョットーは蝋燭の炎が作る影の中にも悪魔の
 
姿を見るような奴でした。 あの狂った男は、自分が無実の人間を拷問に掛け、
 
処刑したことを心のどこかで分かっていたに違いありません。 奴は自分の作
 
り出した恐怖に取り付かれていたのです。 だとすれば、あんな狂人を罠に掛
 
けるなど造作もないことでした。 窓の鍵を外し、窓に悪魔の影を作り、少しば
 
かり背中を押してやれば良かったのです」
 
「私は一体どういう人間なのだ」 エミリオ様は呟くように言いました。 「お
 
前にそんなことをさせてしまったとは。 私にお前を咎める資格などない。 お
 
前がやらなかったのなら、きっと自分がやっていたことだろう」
 
 その震える声で、エミリオ様が頭巾の陰に押し隠しているものを感じ取っ
 
た私は、もう何も言うことができませんでした。
 
「シルヴィオよ、いいか、よく聞け。 お前は私のような人間になってはなら
 
ぬ。 今からでも遅くない。 私のことを忘れて自分の道を歩むのだ。
 
 私は自分の内に膨らみ続ける怒りを育て、やがてはそれに自分の魂を食
 
い尽くされてしまった。 気が付いた時には、もうどうにもならなかったのだ。
 
自分が正しいと思えば、いかなる破壊をも厭わなかった。 しかし、やがて自
 
分の間違いに気が付く時が来る。 しかし、その時は何もかも手遅れなのだ」
 
 エミリオ様はロバを降りて、その手綱を私のロバの背に結び付けました。
 
「自分はもう何もいらない。 私のものはお前が好きに使ってくれ。 これまで、
 
私のようなものの傍にいてくれたことに対する、せめてもの感謝の気持だ。
 
お前がいなかったら、審問を最後までやり遂げることはできなかったかもし
 
れない。
 
 しかし、もうこれ以上、私と一緒にいてはいけない。 お前は自分の道を歩
 
むのだ」
 
「エミリオ様、あなたはこれからどうするおつもりなのですか」
 
「托鉢修道士となって、人々の慈悲にすがって生きるだけだ。 野垂れ死ぬ
 
のであれば、それもまたいいだろう」
 
 エミリオ様は荒涼とした原野に消えていく道を歩き始めました。 何ひとつ
 
持たず、急ぐこともなく、一度も振り返らずに。
 
 
 
 私はロバの背に乗ったまま、エミリオ様が小さくなり、やがて消えていくの
 
をただ見守っていました。 涙がとめどなく流れ、どれほど後を追いかけたい
 
と思っても、たった一つの心残りがそれを押しとどめていました。
 
 私には、まだエミリオ様に話していないことがありました。 しかし、この時、
 
エミリオ様を追いかけて行ったなら、最早、そのことを黙っているわけには
 
いかないと思ったのです。 しかし、もしこの話を知ったのなら、エミリオ様は
 
私に対する関心を永遠に失ってしまうでしょう。 私には、それがエミリオ様と
 
別れるよりも、ずっと恐ろしかったのです。
 
 それは私の両親のことです。
 
 エミリオ様は、私から両親を奪ってしまったのは自分だと思っていますが、
 
それは違います。 そして、その誤解が私とエミリオ様を特別に結びつけてい
 
たことを私はよく知っています。
 
 私は早くに父を亡くし、母がその後再婚した男を父親代わりに育てられま
 
した。 しかし、その男は人の皮を被った獣、酒を飲んで子供をいびる以外、
 
他に能が無いかのような人間でした。 以前は優しかった本当の母さえ人が
 
変わったようになると、もう自分には誰も味方をしてくれる人がいませんでし
 
た。 両親はまだ子供だった私をなぶりものにして、時には笑ってさえいまし
 
た。 冬の或る日、農作業のちょっとした失敗で、気を失うほど殴られ、その
 
まま食べ物すら与えられず、物置に閉じ込められたことを覚えています。 夜、
 
すぐ近くに聞こえる狼たちの鳴き声に、私が恐怖で泣き叫んで戸を叩いても、
 
母屋からは微かな笑い声が聞こえるだけでした。 いつか自分は殺される、
 
私はその時はっきりとそう思いました。
 
 その頃、生まれたばかりの子供が忽然と姿を消すという事件が続けて起こ
 
り、その奇怪な状況から、魔女の仕業ではないかという噂が立っていました。
 
ほどなくして、私の両親が告発され、その地区の異端審問官であったエミリ
 
オ様により裁判が行われました。 私は、両親が有罪の宣告を受け、生きたま
 
ま焼かれていくのをこの目で見ておりましたが、両親のために流す涙は持ち
 
合わせておりませんでした。
 
 両親を悪魔の手先として告発したのは、他ならぬこの私だったからです。
 
 それは造作もないことでした。 子供たちに間に、両親の不穏な噂を流して
 
やればよかったのです。 その噂は瞬く間に広がり、やがてエミリオ様の耳に
 
も届いたのです。
 
 後に、エミリオ様はこの私をも火刑に処すべきか考えていたと聞きました
 
が、思いがけず事件の真相――子供をさらったのは大鷲であったこと――が
 
判明した時、自分の判決を悔やんだのでしょう、エミリオ様は私の後見人と
 
なり、私は見習修道士としての道を歩み始めることになりました。
 
 エミリオ様は師というよりも、どんな時でも兄のような存在でした。 私たちは
 
二人、共に怒り、共に笑い、共に涙しました。 エミリオ様、貴方は私がこの奇
 
怪な世界で見つけた、たった一人の家族だったのです。
 
 しかし、両親を告発し、死に追いやったのが私だということを知ったなら、
 
――私の両親の死に自分は何の責任もないということを知ったのなら、貴方
 
は、やがては私に対する関心を失ってしまうに違いありません。 エミリオ様、
  
貴方がそういう人であることを私は良く知っています。 私が嘘をついてエミリ
 
オ様を利用していたと知ったなら、私に怒りを向けることはないまでも、私を
 
遠ざけ、やがては忘れ去ってしまうことでしょう。 私には何よりそれが耐えら
 
れなかったのです。
 
 
 
 私は両親を火刑台へと追いやり、ジョットーに手を掛けました。 自分が正
 
しいことをしたとも間違ったことをしたとも思ってはいません。 ただ、やらな
 
ければならないと思ったことをやっただけです。 いつの頃からか、私の魂は
 
胸の内で砕け散っていたのかもしれません。 この世界が、神に見捨てられた
 
場所だということを知った時に。
 
 手遅れにならないうちにと、貴方は言いました。 しかし、もう遅すぎます。
 
 最初から手遅れだったのです。 ――何もかも。
 
 
 
 ( 第1部 「告白」 完 )