第1部 「告白」、第4章「審問」、第12節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「私はこの街の市長であるだけでなく、これまでカトリック教会にも、協力
者してきた。 その私を召喚したのなら、そっちにもそれなりの覚悟というも
のがあるのだろうな」 (前節 より)
 
 
本ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
 
 
第4章第13節は9月22日に投稿します。
 
なお、9月19日には、時代背景として

 
「魔女狩りの経済学(3) テンプル騎士団の伝説 呪われた王たち」
 
を投稿します。
 
 
( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )
( 第一章の最初から読む )
 
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第4章 「審問 」
 
 
12. コルラードの告白。
 
 
 
  ここマレドで、なぜ魔女狩りが強化されたのか、なぜ元市長のマウリツィ
  
オが異端審問に掛けられることになったのか。 その答は、街を巡る城壁の
 
上に立って見れば分かることだろう。 答はそこにある。
  
  眼下に広がるアルプスの谷に。
 
 
  1648年に三十年戦争が終わり、ヴェストファーレン条約で、神聖ローマ帝
  
国内ではカトリックとプロテスタントの二宗派併存となった。信仰の自由が認
 
められたということだ。 しかし、1641年には、まだ戦争も終わってはいなかっ
 
たし、ここサヴォイア公国は地理的な条件から言っても、ローマ法王の威光
 
から逃れることはできなかった。その上、サヴォイア公の母君クリスティーヌ様
 
が深くカトリックに帰依しているとくれば、ここマレドで信仰の自由を云々する
 
など、夢物語を語るのも同然だ。しかし、市長のマウリツィオはそう考えては
 
いなかった。奴は信仰の自由が認められるべきだと考えていたのだ。そんな
 
ことはどだい無理な話なのだ。 あのクリスティーヌ・マリー・ド・フランスが公国
 
に君臨している内は。
  
  それだけじゃない。ここピエモンテには特別な事情がある。
 
  城壁に立ってアルプスの谷を見渡してみろ。一見、平和そうに見えるその
 
谷間は、数百年も前から異端ヴァルド派の巣窟になっている。 奴らは、イエ
 
ス・キリストの使徒の時代から続く原始キリスト教徒を自負し、自分たちは
 
ローマ・カトリックの影響を一切、受けていないと主張する。 ヴァルドはアル
 
プスの谷に閉じ込められ、そこから出ることを許されていないが、公国のカト
 
リック教徒たちから見れば、伝染病患者が隣に住んでいるようなものだ。 し
 
かし、そのヴァルド派を、反カトリックの連中――つまり、プロテスタントは、
 
彼らを真のキリスト教徒か、自分たちの祖先のように考え、尊敬の念すら抱
 
いている。イングランドで清教徒革命が完遂した今では、この何の変哲も
 
ない山間の地が、世界中のプロテスタントから注目されているのだ。
 
  1639年のピエモンテの内戦では、美しいトリノもすっかり荒廃した。内戦
 
で費やされた戦費やら、さらにはトリノ復興の費用やら――莫大な支出で公
 
国の財政は借金漬けだ。 しかし国庫に金が無いからといって、王族や貴族、
 
役人たちが少しでも倹しい暮らしを受け入れるとでも思うか?  事実を言え
 
ば全く逆だ。 前よりも豪華な宮殿の再建が始まり、夜会の宴は日に日に派
 
手になっていく。 クリスティーヌ様には愛人も必要だしな。
 
  戦争には巻き込まれなかったものの、マレドも事情は変わらない。 ピエモ
 
ンテ州ではスペインとフランスの戦争が続き、マレド市も防衛のため莫大な戦
 
費の支出を余儀なくされている。 しかし、市民に重税を課すのにも限度があ
 
る。 度を超えたことをすれば、社会に亀裂が生じかねない。
 
  市長のマウリツィオは緊縮財政を敷こうとしたが、どんな事情であれ、自
 
分の食い扶持を減らされていい顔をする人間はいない。 「ビンディ家の人間
 
なんていい気なものだ。 マウリツィオは自分ほど金を持っていない人間の気
 
持ちなど分からないのだろう。 宴会の料理の皿を減らすぐらいなら、スペイ
 
ンに街を明け渡すぞ」 と、市議会議員たちは冗談とも本気ともつかない陰口
 
を叩いたものだ。 しかし、内外で高まる緊張は自分にとっては好機だった。
 
この非常時では、あのマウリツィオでは役に立たない。――自分が市長に
 
なるべきだと思った。
 
  自分はこの危機を乗り越える方法は一つしか無いと考えていた。
 
  異端審問を強化して有罪になった連中の財産を没収するのだ。
 
  私は密かにサヴォイア家に進言していた。 内戦で傷ついた公国を立て直
 
すにはどうすればよいか、そして、このマレドをどうすべきか、――サヴォイ
 
ア家を通じて、カトリック教会に新しい審問官の派遣を要請したのは、この
 
私だ。そして、神の狂犬、審問官ジョットーが送りこまれた。
 
  三者の思惑は一致している。 異端を滅ぼしたいカトリック教会、公国を立
 
て直したいサヴォイア家、マウリツィオを追い出したい市議会員たち。足り
 
ないのは、その犠牲者だけだった。
 
 
 
  役者は揃っても、そう簡単に物事は前に進まない。 邪魔なのは、何よりマ
 
ウリツィオの存在だった。
 
  手っ取り早く、マウリツィオを異端として告発してしまうことも考えたが、
 
相手が現職の市長であるからには、納得の行く証拠が無い限りそれは難し
 
い。 乱暴なことをしては、何より市民の反発を買うことになるだろう。 奴は、
 
とにかく市民の人気だけはあったからだ。 マウリツィオを失脚させられるとす
 
れば、その材料は愛人のフォスカリ夫人にあるはずだと思っていた。 フォス
 
カリ夫人は自身が画家であると共に、画商としてサロンを開いている。 出入
 
りする連中の中には、プロテスタントや、もしかしたら異端信仰を持つ者も
 
いただろう。
 
  市会議員の中に、テオドロという酒で身を持ち崩した何の役にも立たな
 
い男がいた。 好都合なことに、議員としての正義だの良心だの、そんな高
 
尚な概念は持ち合わせない男だ。昔、絵の勉強をしたことがあるらしく、絵
 
に関しては詳しかったので、私が彼を選んだ。 テオドロに、マウリツィオを見
 
張れ、と言ったのだ。 奴を失脚させることができたら、悪いようにはしないと
 
囁きながら。 あの男は自分のやろうとしていることを大して考えるでもなく引
 
き受けた。もしかしたら、奴の興味はフォスカリ夫人の方にあったのかもしれ
 
ないが、そんなことはどうでもいいことだ。
 
  全くの偶然だが、そこにマルティーナの魔女事件が起こった。 マルティー
 
ナの自白に基づき、街でも高名な女性ばかりが魔女として審問に掛けられる
 
ことになった。 実を言うと、マルティーナが魔女の仲間として挙げた女たちの
 
中には、フォスカリ夫人が含まれていた。ジ ョットーからの知らせは、すぐテ
 
オドロにも届けられ、相談の結果、テオドロの進言で、夫人は逮捕を免れる
 
ことになった。 ジョットーは以前から、度々審問に介入したり容疑者の逃亡
 
を手助けたりしていたマウリツィオを異端審問に掛けるべきだと考えていた
 
から、フォスカリ夫人は異端たちの情報の提供者であり、マウリツィオの化け
 
の皮を剥がす、いい機会だと言えば、ジョットーにも異論があるはずはなか
 
った。
 
  思った通り、マウリツィオは女たちを救うために動き出した。 フォスカリ夫
 
人をよほど信用していたのだろう、あの女に相談をしたのが運の尽きだ。 フ
 
ォスカリ夫人の勧めで、トリノの高等法院に審問への介入を依頼する書簡
 
を書いて夫人に託したが、それを首尾良くテオドロが嗅ぎつけたのだ。 手紙
 
を渡せば審問に掛けられずに済むと言ったら、あの女は迷いもせずに書簡
 
を差し出したそうだ。 馬鹿な男だ、あのマウリツィオという男は。 若い頃から
 
随分女性には人気があったようだが、まるで女を見る目が無いらしい。
 
  本当のことを言えば、書簡をトリノに持っていっても何の役にも立たなか
 
っただろう。 既に中央や宮廷とは異端審問を強化することで話が付いてい
 
たのだ。 先に言ったように、この点では全員の思惑が一致していた。 そし
 
て、マウリツィオが失脚した後は、私が市長になるということも予め決まってい
 
たのだ。
 
  しかし、マウリツィオは公国外の高等法院にも介入を依頼することを考え
 
ていたようだ。 万が一、外国からの介入があったのなら事態は違っていた 
 
だろう。 クリスティーヌ様の母君がメディチ家の出身であるからには、もしも、
 
フィレンツェあたりから介入があれば無碍にはできないはずだ。そうなれば
 
折角の機会がふいになる。 が、天は我々に味方した。幸いなことに、介入
 
は実現しなかった。 マウリツィオにそうするだけの余力が無かったからだ。
 
  マウリツィオは外側を包囲されていただけではなく、内側からも崩れ掛け
 
ていたのだ。 奴の妻は夫を全く理解しようとしないまま――愛人を作ったの
 
だから身から出た錆というものだが――、死の病に取りつかれてこの世を
 
去った。 おまけに息子は宗教的な狂信者で、俗物な父親をひどく嫌って、家
 
を出て行ったそうだ。
 
  しかし、どんな息子であっても息子は息子ということなのだろう、マウリ
 
ツィオはひどく意気消沈していたらしい。 そのせいで、奴は自分の周りで何
 
が起こっているか、全く気が付いていなかったのかもしれない。 そして、気
 
が付いた時には総てが手遅れだったというわけだ。