第1部 「告白」、第4章「審問」、第10節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「私は顔を上げて男の目を覗き込みました。 その真っ暗な瞳は、まるで底無しの
深淵を見ているかのようでした」 (前節 より)
 
 
本ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。 
 
 
第4章第11節は9月8日に投稿します。
 
なお、9月5日には、時代背景として、
 
「魔女狩りの経済学」
 
を投稿します。 
 
 
( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )
( 第一章の最初から読む )
 
-----------------------------------------------------------------
第4章 「審問 」
 
 
10. テオドロの告白
 
 
 
  人は俺のことを知らない。 誰も俺に興味など持たないからだ。
 
  俺がどんな人物で、神に何を祈るのか、どんな子供だったのか、年を取っ
 
たらどうするつもりなのか、誰も尋ねたりはしない。 顔と名前が分かりさえ
 
すれば、それで充分。 それ以上、俺のことなど知る必要はない。 ――見た
 
目に愉快でもなく、何の才能もなく、落ちぶれ果てた貴族の末裔。 お情けで
 
市会議員の席を貰い、その時々で権力者におもねる男。
 
  そんな言い方もまんざら外れではないかもしれないが、俺だって最初から
 
こうだったわけじゃない。 神に自分の才能を捧げたいと願い、絵に打ち込ん
 
だ時期もあった。 しかし、すぐに悟ることになった。 神は俺なんか必要とし
 
ていないということに。  
  神が俺を必要としていないのなら、それに相応しい感覚の鈍さを俺に授け
 
るべきだろう。 しかし、一体どういうつもりなのか、触れられれば針で突か
 
れたように痛む鋭い感覚だけを授けた。 俺はその痛みを忘れるために酒を

  
煽り、それを和らげるために厚い脂肪を身にまとった。 しかし、正気に戻れ
 
ば、再びあの痛みが襲ってくる。 それはまるで、現世にありながら地獄の針
 
山に暮らせと言われているようではないか。
 
  俺は神を憎む。 罪を犯していないのに罰を与えようとする偽りの神を。
 
  その目でよく見るがいい。
  
  悪魔に魂を売った男とは俺のような人間のことを言うのだ。
 
 
 
  俺がアルベルタ・フォスカリのサロンに出入りすることになったのは、以
 
前、打ち込んでいた絵画の勉強のせいで、並みの人間よりも少しばかり絵を
 
見る目が備わっていたからだ。 そんな俺を見込んでのことだろう、市議会参
 
事のコルラードが俺の耳に囁いたのだ。
 
「フォスカリ夫人のサロンを探れ。 どんなことでもいい、あの女と関係して
 
いる市長のマウリツィオを異端で告発できさえすれば。 その嫌疑となるもの
 
を探すのだ。 勿論、これがうまくいけば悪いようにはしない。 出世して、没
 
落したお前の家系を再興するいい機会だと思え。 女はお前の好きにしてい
 
い」
 
  コンラードは抜け目の無い男だ。 奴は俺のことを見抜いていたのかもしれ
 
ない。 俺が悪魔に魂を売り渡した人間だということを。
 
  しかし、そんな俺でも芸術に対する最後の尊敬の念まで捨てていたわけ
 
じゃない。 もしも、画家を気取るアルベルタ・フォスカリに、本当に絵の才能
 
があったのなら、例えコルラードが何と言おうと、俺は彼女に累が及ぶのを
 
防いでいたことだろう。 しかし、あの女に絵の才能など薬にしたくも無かっ
 
た。 一見して心地良いだけで、長く見ていれば胸焼けしそうな絵の数々。 そ
 
の絵には何の真実も魅力もなく、魅力があるのは、あの女の顔と体だけだっ
 
た。 本物と偽物の区別も付かない女たちは、その甘ったるい絵を好み、男た
 
ちはアルベルタを見ながら絵を褒めた。 市長だったマウリツィオもそんな男
 
たちの一人だった。 いや、あの男は正直だったのかもしれない。 奴は絵を
 
ろくすっぽ見るでもなく、最初から女だけを見ていたのだから。
 
  アルベルタとマウリツィオが密かに関係していることは、勿論、知ってい
 
た。 あのアルベルタと情を通じていた馬鹿な奴――その意味では、マウリツ
 
ィオの破滅はいい気味だとしか思わない。 しかし、俺自身はマウリツィオの
 
ことなどどうでも良かった。 マウリツィオに興味があったのは、市議会参事
 
のコルラードだ。 コルラードが何を企んでいるにせよ、マウリツィオがどう
 
なろうと俺の知ったことではなかった。 サロンに何度か足を運ぶ内、俺の興
 
味は急速にアルベルタだけに絞られていったのだ。
 
 
 
  俺は 1630 年、絵の勉強のためにローマに行ったことがある。 そこで、偶
 
然、ベラスケスというスペイン人に出会った。 当時、彼はまだ三十そこそこ
 
の若さで、少なくともローマでは全く無名だったから、俺は彼のことを自分
 
と同じ画学生ぐらいにしか思っていなかった。 しかし、俺は彼の絵を見て驚
 
愕した。 ラファエロを見てもミケランジェロを見ても感じなかったものをそ
 
の絵に感じた。 彼の描いた公妃クリスティーヌの肖像画は、荒っぽく仕上げ
 
られていたにも関わらず、その美しい貴婦人の虚栄心、心の底に潜む酷薄さ
 
を残酷なまでに描き切っていた。 それは彼が絵を使って他人を批評するよう
 
な人間であったという意味じゃない。 彼は無心に自分の才能を振い、無造作
 
に目に見える以上の真実を写し取っていたのだ。
 
  自分にはその肖像画を描いた男の真似をすることすらできない。 俺はそう
 
認めざるを得なかった。 そして、自分の才能を諦めた。 描くのを辞めてしま
 
ったのだ。 あの絵を見た時の、心臓を短剣で突かれたような感覚が他の誰
 
に分かるというのだろう。 筆を捨てたことで、親や友人からもいろいろ言われ
 
たが、他人がどう思おうと知ったことか。 自分の考えが間違っていたと思った
 
ことはない。 俺にとってはそれが真実だったからだ。 しかし、アルベルタを見
 
ていると、自分がどうして絵を捨てなければならなかったのか分からなくなる。
 
俺はあの女を心底、軽蔑した。 自分の肉体的な価値と作品の価値の区別
 
すら付けないままに、芸術家を気取る女。 俺はあの女を踏みにじってやりた
 
かった。 あの女には似つかわしい、売春婦の扱いをしてやりたかった。
 
 
 
  俺はその時が来るのをじっと待った。  
 
  しかし、事態は思わぬ方向に進んで行った。 サロンにも出入りしていたマ
 
ルティーナという娘が魔女の嫌疑を掛けられて告発され、その娘が審問で魔
 
女の仲間を名指しした。 その中にアルベルタが入っていたのだ。 その知らせ
 
を受けると直ちにコンラードに話を付けて、アルベルタの逮捕を止めさせた。
 
コンラードを通じて審問官ジョットーに、アルベルタは魔女たちを欺く協力
 
者だと信じさせたのだ。 但し、その証拠を見せなければならない。 勿論、そ
 
れは市長マウリツィオの告発だった。
 
  マウリツィオとアルベルタが、マルティーナたちを助けるための算段をし
 
ていたのを嗅ぎ付けていた俺は、アルベルタに証拠の手紙を出すよう迫った。
 
あの女を助けたかったわけじゃない。 あの女を手に入れたかっただけだ。
 
自分の沈み込んだ深淵に、あの女を引きずり込みたかっただけだ。 それが、
 
あの女には相応しいと思ったからだ。 意外なことだが、女は自分の置かれた
 
立場を知ると逡巡するでもなく証拠の手紙を差し出した。 それはまるで俺を
 
侮辱するかのような冷徹さだった。
 
 
 
  俺は女を匿うと称して、街から離れた自分の古い別宅にアルベルタを閉じ
 
込めた。 女を自分だけの娼婦にするつもりだった。 才能の無い芸術家気取
 
りには相応しい扱いだ。 しかし、俺が夜毎、女の上で独り足掻こうとも、女は
 
まるで俺の存在など無いかのようにじっと横たわっているだけだった。 堕落
 
した人間同士、いくら一体になろうとしても、女は自分を滑らかな、しかし
 
弾力のある皮膚に包んで、生意気にも俺を弾き返した。
 
  或る夜、独りでもがく俺の体の下で、女がずっと窓の外を眺めていること
 
に気が付いた。 横目に見ると、ベールのような雲の掛かった青白い月が見
 
えた。 その静謐な美しさを見た時、あの時の心臓を短剣で突かれたような感
 
覚――初めてベラスケスの絵を見た時の感覚が俺の中に蘇った。 俺には無
 
いものをその女が持っていると、初めて気付かされたのだ。 それは、善悪を
 
も超えて自分の生を肯定しようとする強い意志だった。 が、俺の最後の自尊
 
心が負けを認めることを拒んだ。 俺の中で何かが爆発した。 俺を否定する
 
な! 俺を無視するな! お前だって俺と同じ、神に見捨てられた人間だろう!  
 
俺は心の中で狂ったように叫びながら女を殴った。 女の顔は血塗れになり、
 
その返り血は俺の口の中にまで飛びこみ、鉄の味が口の中一杯に広がった。
 
  しかし、それでも女は俺の存在を認めようとはしなかった。
 
  全身から力が抜け、俺は女に馬乗りにっなったまま、茫然として自分のし
 
たことを眺めた。 女の目は腫れ上がった瞼に隠れ、もうどこを見ているのか
 
も分からない。 しかし、その顔はなおも月の方を向いて、最後まで俺を見る
 
ことはなかった。 俺は女から降り、夢遊病者のように外にさまよい出た。
 
  自分の中で何もかもが死に絶えていた。 自分が何を望んでいたのかさえ、
 
もう分からない。 それでも死のうとしなかったのは、ただ、そうするだけの
 
勇気が無かったからだ。
 
  認めてほしいなら認めてやるとも。 俺は悪魔に魂を売ったんだ。 あの時、
 
――神は自分を必要としていないということを知った時に。