第1部 「告白」、第4章「審問」、第4節 | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「この事件で最も過敏に反応したのは、他ならぬエミリオ様でした。エミリオ

様はジョットーの葬儀の席上、他の修道士たちを前に、悪魔に対する報復を
誓ったのです 前節より)

   
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第4章第5節は7月14日に投稿します。  
  
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第4章 「審問 」
 
 
4.見習修道士シルヴィオ、審問開始の日を語る 
 
 
 
 悪魔に対する報復は直ちに開始されました。 もしかしたら、そのように見
 
えたと言った方が正しいのかもしれません。 私がエミリオ様の言いつけに従
 
って、何の書類なのかも分からないまま、幾つかの書状をあちこちに届けた
 
後、暫くして審問所にひとりの男が連れてこられました。 男は審問室に入る
 
と、誰もがそうであるように体を縮め、不安そうに周囲を見回しました。 もうす
 
ぐ初老に差し掛かろうかというくらいの年齢で、姿形からして牧夫であるに
 
違いありません。 正面には新しい審問官であるエミリオ様が座り、周囲を書
 
記や刑吏、武器を携えた兵士が囲みました。
 
「何も恐れることはない」エミリオ様は男の様子を見て、穏やかに言いまし
 
た。 「今日はお前に助けて貰いたいことがあり、ここへ呼んだのだ」
 
「へえ、審問官様、私にできることならどんなことでも」男はその言葉に安
 
心したのか、体の力を抜いて卑屈な笑顔を浮かべました。
 
「先だって前審問官のジョットー殿がこの世を去ったことは知っているか」
 
「ええ、そのことは噂に聞きました。 この度はとんだことで。 ジョットー
 
様とは以前に何度かお会いしたことがありますから‥‥」
 
「審問記録を読んだが、どうもそのようだな。 そこでお前に頼みたいことが
 
ある。 我々はジョットー殿の死が悪魔やその使徒たちの仕業だと考える確か
 
な証拠がある。 この神を恐れぬ挑戦に対して、断固たる態度で臨まねばなら
 
ぬ」
 
「誠にごもっともなお話です。 ‥‥それで、私は一体何を」
 
「羊飼いが聖なる職業であることは私も知っている。 羊飼いであるお前は魔
 
女を見分ける力があると聞いているが相違ないか?」
 
 その言葉に、男が再び身を固くしたのが分かりました。
 
「へえ、その通りでございます」
 
「それでは、ここに魔女の嫌疑の掛かった女たちを連れてくる。 しかし、自
 
分にはどうしてもその告発に確信が持てないので、お前の助けを借りたい。
 
嫌疑の掛かっている女は三人。 その中に一人以上の魔女がいることは確実
 
だが、もしかしたら二人、いや三人共、魔女なのかもしれぬ。 お前のその力で
 
魔女を見つけ出して欲しいのだ。 首尾良く魔女を見つけたのであれば褒美を
 
取らせよう。 だが、ひとつ言っておきたいことがある。 これまで、お前の告発
 
によって火刑になった女たちが少なからずいることは覚えているだろう。 そう
 
であるからには、間違いは許さぬ。 それをよく肝に命じておけ」
 
 エミリオ様の合図と共に、三人の老女が連れて来られました。 全員が黒の
 
外套に身を包み、鉄の鎖で手足の自由を奪われています。 外から見えてい
 
るのは、その顔だけでしたが、深く刻まれた皺やその表情は、誰が魔女であ
 
っても違和感がないように思われました。 恐怖に目を見開き、何人かは涙を
 
流しています。 壁を背にして並んだ女たちは、体の震えを止めることはできな
 
くとも、恐らくは前もって警告されていたのでしょう、言葉を発する者はありませ
 
んでした。
 
 男は女たちの前を行ったり来たりしながら、時に壁や天井にも視線を彷徨
 
わせていました。 明らかにこの状況から脱出する方法を捜しているようでした。
 
何の手掛かりもない状態で、自分ならどうするか、考えずにはいられません
 
でした。
 
「審問官様、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」 男はおずおずと尋ねまし
 
た。 「審問官様は間違いは許さないと仰いました。 わしの目が正しいか間
 
違っているか、どのように確かめるおつもりなので?」
 
「拷問に掛けて自白させれば分かることだ」
 
「なるほど、さすがはドミニコ会の異端審問官様です。 よく分かりました」
 
そう言って、男は真ん中にいた女を指差した。 「こいつが魔女に違いないで
 
す。 拷問で締め上げてやれば、すぐに白状しますよ」
 
「愚か者め」 エミリオ様が呟くように言いました。
 
「は? 今、何と仰られたので?」
 
「愚か者と言ったのだ。 お前が指差したのは我が会派の修道女だ。 この男
 
を暫く牢に閉じ込めておけ。 訊いてみたいことがある」
 
 その場にいた全員が凍りつきました。 羊飼いの男は勿論のこと、兵士や
 
刑吏たちまでが呆気に取られ、女たちに至っては何が起こったのか分から
 
ない様子でした。 魔女として指差された女は、今にも失神しようとしていた所
 
が、逮捕されたのが自分ではなく告発した男の方だったので、尚更、どうした
 
らよいか分からない様子でした。
 
 沈黙を破ったのは男の叫びでした。
 
「修道女だからと言って魔女でないとは限りますまい。 どうか、その女を拷問
 
に掛けてください。 きっと白状しますから」
 
「それでは、お前が魔女ではないと言った者を拷問に掛け、その女が罪を告
 
白したのなら、お前を罪に問うぞ。 魔女を助けようとした罪でだ。 それでも良
 
いのだな」
 
 男は二の句を発することができませんでした。
 
「どうした、何か言うことはないのか」
 
 エミリオ様の念押しに、男は口だけを虚しく動かしましたが、言葉は声にな
 
りませんでした。
 
「連れて行け」
 
 男は兵士にその場に組み伏せられ、今度は言葉にならない叫び声を上げ
 
始めました。 床を引きずられて行きながら、その叫びは尾を引くように続きま
 
したが、堅牢な扉の向こうに口を開けた漆黒の闇にその姿が飲み込まれると、
 
やがてはその声も聞こえなくなりました。