第1部 「告白」、第4章「審問」、第3節 | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
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第4章第4節は7月7日に投稿します。
 
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第4章 「審問 」
 
 
3.見習修道士シルヴィオ、異端審問官ジョットーを語る 
 
 
 
  翌日、夜明け前に起きた私たちは、教会内陣での朝課に参加しました。祈
 
祷が終わった後、そこで初めてジョットーに会うことができました。エミリオ様
 
は丁寧な挨拶の言葉を述べた後、私のこともジョットーに紹介してくれました。
 
視線を合わせても、ジョットーの白く濁った目はまるで私を通り越して冥界を
 
見ているかのようで、感情の無い声で返される簡潔な言葉は、会話というより
 
も独白を聞いているかのようです。生きた人間には最早興味は無く、神と堕
 
天使の闘いの世界に耽溺する、現実から遊離した老人――自分にはそのよ
 
うに思えました。
 
  エミリオ様がジョットーのことをどのように思ったのかは分かりません。し
 
かし、表向きは慇懃に話を合わせてはいても、本心を隠して用心深く言葉を
 
選んでいるように感じました。ジョットーとの決して長くはない会話の中で、一
 
瞬、エミリオ様が感情を表したのは、「以前はあなたも異端審問官であったと
 
いうが、どのくらい悪魔の使徒どもを火刑にしたのか」と、まるで天気の話で
 
もしているかのような無造作な調子でジョットーに尋ねられた時でした。一瞬
 
の躊躇の後、「ジョットー殿、あなたの功績に比べれば、私の仕事など語るに
 
足らないものです」と言って、エミリオ様は恭しく頭を垂れました。ジョットーは
 
その言葉を聴いて満足したのか、軽く頷くと杖を使いながら覚束ない足取り
 
で去っていきました。
 
  エミリオ様は、早速、その日から審問所の書庫に入って記録を調べ始めま
 
した。 異端根絶のため、この土地の異端についてより良く知るためだと言え
 
ば、このことに何ら疑いを差し挟んだり、邪魔をしたりする者はおりません。
 
  ジョットーのいる限り審問が正常に行われることはない。 異端審問の本来
 
の目的は異端信仰を根絶することにあるにも関わらず、審問官ジョットーは異
 
端信仰とは即ち悪魔との契約であるという図式を拡大し、魔女狩りの狂気に血
 
道を上げている。――エミリオ様がそのような結論に辿り付くまでに時間は掛
 
かりませんでした。
 
  問題なのは、「いかにしてジョットーの異端審問に介入するか」 です。何し
 
ろジョットーは審問官としては有能で知られています。教会内部だけでなく、
 
宮廷や市議会、一般の民衆にさえ熱烈な支持者がいます。下手に批判した
 
ら、こっちが異端審問に掛けられることさえ覚悟しなければなりません。 新参
 
者のエミリオ様がジョットーのやり方に異議申し立てをすることなど、考える
 
こともできませんでした。
 
  エミリオ様が私にご自分の考えを話したその時から、私はジョットーに可能
 
な限り近付き、その言動を観察するようになりました。仔細に見れば、その男
 
が狂っていることは明らかであるように思われました。彼は悪魔を実際に見た
 
ことがあると、そう主張していました。 ジョットーが僧房に独りでいる時など、
 
何度か悪魔は窓の外まで来て、黒い影に真っ赤な瞳だけを光らせ、憎しみに
 
満ちた唸り声をあげるのだそうです。その悪魔に向かって 「立ち去れ」 と命じ
 
たり、時には物を投げつけることさえあるということです。
 
  だとすれば、或る夜、ジョットーが窓から転落して死んでいたとしても、それ
 
ほど不思議なこととも思いませんでした。或る朝、修道士のひとりが僧院の脇
 
で倒れているジョットーを見つけました。石畳には赤黒い血だまりが広がり、手
 
には重い燭代を握り締めていたということです。上階にあるジョットーの部屋
 
の窓が壊れ、外に向かって大きく開け放たれたままになっておりました。修道
 
院の中はひっくり返ったような騒ぎとなり、私の僧房はジョットーの僧房のすぐ
 
傍であったため、私も何か変わったことは無かったかと聞かれました。
 
「そういえば深夜に不穏な物音がして目を覚ましました。すぐ静かになったの
 
で、また目を閉じてしまいましたが……。恐らく窓の外までやってきた悪魔―
 
―悪魔は教会の施設の中にまでは入ってこられませんから――の狡猾な罠
 
に嵌り、窓から転落したのでしょうか。大変、恐ろしいことです」
 
  ジョットーは以前から悪魔を見ておりましたし、それに対して怒りをぶつけ
 
ることもあったことは誰もが知っておりましたので、それ以上、何も質問をさ
 
れることはありませんでした。もしかしたら、ジョットーがこの世を去ったこ
 
とで、内心、ほっとしている人間も少なくは無かったのかもしれません。
 
  この事件で最も過敏に反応したのは、他ならぬエミリオ様でした。エミリオ
 
様はジョットーの葬儀の席上、他の修道士たちを前に、悪魔に対する報復を
 
誓ったのです。 以前は自身も異端審問官であり、マレドへは異端審問の聴
 
聞僧として派遣されていたわけですから、エミリオ様が異端審問を引き継ぐこ
 
とに反対する者はありませんでした。
 
  修道士たちの中には、やれやれ、第二のジョットーが現れたと思った者も
 
いたことでしょう。エミリオ様の悪魔に対する怒りの言葉に違和感を覚えた者
 
もいたに違いありません。実を言えば、私もその独りです。そもそも、ジョットー
 
の狂気に対抗できる理性の人として、エミリオ様はここに派遣されているわ
 
けですから。 しかし、その時はまだ、エミリオ様の本当の目的が何か、私は
 
知るよしも無かったのです。