第1部 「告白」、第4章「審問」、第2節 | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
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第4章第3節は6月30日に投稿します。
 

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( 第一章の最初から読む )
 

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第4章 「審問 」
 
 
2.見習修道士シルヴィオ、マレドへの旅を語る 
 
 
 
  そのようなわけで、正式にエミリオ様のマレド行へのお供が決まった時には、
 
躍り上がりたい気分でした。 修道院長にしてみれば、自分のような出来損な
 
い見習修道士を厄介払いできるので、渡りに舟だったのでしょう。 二つ返事
 
で許可が下りたとのことです。
 
  私たちは修道士らしく、ロバの背に乗って旅に出発しました。 この時にな
 
って初めて知ったのですが、エミリオ様は背中に少しばかり障害があり、長い
 
距離を一気に移動することは好ましいことではありませんでした。 そのため、
 
旅は思いの外、のんびりとしたものになりました。 私は自分の生まれた所か
 
らこんなに離れた所まで来たのは初めてだったので、新鮮な気持に胸を膨ら
 
ませながら夜明けを迎え、初めて見る風景に興奮冷めやらず夕暮れを迎え
 
ました。 旅の間も終始、穏やかな天気に恵まれたせいでしょうか、エミリオ様
 
もこれまでになく朗らかに見えました。 ただ、時折、思いつめたように考え込
 
んで、塞ぎ込むことがありました。 そんな時には、お邪魔にならぬよう、少し
 
距離を置いて見ている他ありませんでしたが。
 
  この旅の間、私たちは文字通り寝食を共にし、夜には焚き火を囲んでとりと
 
めも無く語り合うことができました。 それでも、暗黙の了解として、お互いの
 
個人的な背景を話すことだけはありませんでした。 エミリオ様が私の両親のこ
 
とに触れたのは、後にも先にも、私が修道院の中庭でエミリオ様にお話をさせ
 
ていただいたあの時だけです。
 
  長い夜には、エミリオ様は私に聖書の話をしたり、読み書きを教えてくれた
 
りしました。 しかし、相手が出来の悪い修道士見習いでは、折角の講義も右
 
の耳から入って左の耳に抜けていくだけです。 聖書の話を聞きながら、つい
 
眠ってしまい、聖書で頭をどすんとやられたことも一度や二度でもありません。
 
「あっ、聖書で人を殴ってもいいのですか」 と抗議した時には、エミリオ様も堪
 
えきれなくなり、二人で一緒に笑ってしまいました。
 
  この後に続いた出来事を考えれば、この一週間程の旅は、嵐のさなかに不
 
意に訪れるという凪の時のようでした。 周囲を不気味な黒雲の壁に囲まれな
 
がらも、その場所だけは風も無く、穏やかな陽の光が差し込んでいるのです。
 
この後、再び襲い来る嵐の中で木の葉のように翻弄されながら、私は繰り返
 
しこの旅の日々を振り返っては、その穏やかな時を懐かしく思い起こすことに
 
なるのです。
 
  いつまでも旅を続けていたいとさえ感じ始めた頃、皮肉にも旅の終わりが
 
見えてきました。 なだらかな丘を越えると、突如、私たちの前に目的地である
 
マレドの街が広がりました。 背後に黒い岩山を従え、鋭い剣で削り取ったか
 
のような褐色の城壁が街を囲んでいます。 市街地は城外にまで広がり、その
 
繁栄が窺われるものの、何か息の詰まりそうな淀みを感じずにはいられませ
 
んでした。 城門に近づくにつれ、その曖昧に淀んだ空気は、はっきりとした不
 
吉へと変わっていきました。 城門に続く道の両側には、まるで地獄の森のよう
 
に、真っ黒に焼けた柱が立ち並んでいたのです。
 
  私たちは城門から夕暮れ時の街の中へと入っていきました。 押し黙った
 
人々が行き交う通りを進んで行くと、石畳の敷き詰められた中央広場と、それ
 
に面したゴシック教会が現れました。 僧院の門で迎えの者と出会った時、私
 
は、ついに旅は終わってしまったという一抹の寂しさを覚えずにはいられま
 
せんでした。
 
  丸一日の移動からくる疲労で、挨拶は形ばかりとなりましたが、気を利かし
 
た修道士の方が早々に僧房へと案内してくれました。 そこで夕食をいただき、
 
やっと長い一日の終わりを迎えることができました。 私は荷物を解き、エミリ
 
オ様の身辺を整えた後、自分の房に下がり、寝台に疲れた体を横たえました。
 
しかし、目を閉じてその日一日を思い返していると、まるで黒雲の壁に向かっ
 
て突き進んでいく船に乗っているかのような思いに捉われ、すぐに浅い眠りか
 
ら引き戻されました。 昨夜までの長閑な夜を懐かしく思いながら、私はいつま
 
でも漆黒の闇に目を凝らし、静寂に耳を傾けていました。