第1部 「告白」、第1章「マレド群像」、第1節~第3節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録


( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )


続きは1月14日にアップします。


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1 アンナ


  1641年当時 6才。

  裁判結審の日の遅い午後、マレドにある自宅の部屋にて


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 あの日のことはよく覚えています。暑い夏の日で、窓から見上げると抜けるよ


青空が見えました。だから、なおさら私は腹を立てて、どしどし足を踏み鳴ら


がら、部屋の中を歩き回っていたんです。まだ六歳だった私は、その日、お


様から「決して外へ出てはいけない」ときつく言われていて、文字通り、部屋に


じ込められていたのです。悪いことをしたわけでもないのに、なぜ部屋に閉じ


られなければならないのか、理由ぐらい話してくれてもよさそうなものですよ


ね。けど、お母様は「とにかくだめ」と繰り返すだけなのです。閉じ込められた


と外を繋いでいるのは、開け放たれた窓だけでした。部屋は建物の三階にあ


ましたから、見下ろせば石畳の敷かれた通りを眺めることができます。その日、


通りは奇妙にも静まりかえっていました。普段なら沢山の人や馬車が頻繁に往


来してうるさいぐらいなのですが、その日に限っては、黒いストールを頭から掛け


たお婆さんが独り、杖を突きながらのろのろと歩いているだけでした。みんなどこ


に行ってしまったのだろう。あのお婆さんは歳を取り過ぎていて、きっと他の人が


どこに行こうと関係ないのね。そう思いながら、人気の無い通りを眺めていました。


しかし、お婆さんを眺めていても何の面白いこともなかったので、私は窓から離


ようとしました。その時です。そのお婆さんの悲鳴が聞こえたのは。 


 何かあったのかと、私は慌てて窓の所に戻りました。殆ど満足に歩くこともでき


ないようなお婆さんなのに、建物の庇の下に、転げるように入っていくのが見えま


した。一体、何だというのでしょう。通りを見渡しても、何一つ変わったことはあり


ません。が、その時、窓から顔を出していた私の目の前を何かが下に落ちてい


きました。白い花びらのようなものが、ゆっくりと。手を伸ばして掌を上に向ける


と、そこにもう一つ、白いひとひらが舞い下りました。最初、雪が降ってきたのか


と思いました。だけど、それは変ですよね。だって、それは暑い夏の日で、空は


真っ青に澄み渡っていたのですから。勿論、それは雪などではありませんでした。


青い空から白い灰が、雪のように舞い降りていたのです。見えない所から、お婆


さんが一心不乱に神様に祈る声が聞こえてきました。その時、初めて、この街


に何か不吉なことが起こりつつあることが、幼い私にもはっきりと分かったのです。



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2 アンナの母

  

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 私はその日、六才の娘を部屋に入れて扉に鍵を掛けなくてはなりませんでした。


娘のアンナは外に遊びに行きたがって、それを許して貰えないからといって、い


つまでも怒っているのです。理由を話したくとも、今の世の中で起こっていること


は子供に話せることではありません。お前は子供なのだからと言って聞かせても、


あの子はまるで分かってくれません。いつもことではありますが、なんて頑固な子


なのでしょう。一体、誰に似たのかと、母親ながら呆れてしまいます。


 マレドの町はその殆どが鋭い角で折れ曲がった石の城壁に囲まれています。北


側は岩山が視界を遮り、南側は豊かな農地や牧草地、黒々とした森がなだらか


に下っていくのを見渡すことができます。街の中心にはカトリック教会があり、当


然のことですが、街の者は皆、敬虔なカトリック教徒ばかりです。見晴らしの良


い場所から見渡せば、まずは頑丈な城壁が、そして、その向こうにはアルプスの


山が、まるで街を二重に守るように囲んでいます。そんな風景を見ながら育った


私たちには、時折、どこか遠くの国から聞こえてくる戦乱の話、不穏な噂は自分


たちには関係のないものと、根拠もなく信じていました。噂に語られる恐ろしい出


来事は、自分たちの身近では起こるはずがないものと、心のどこかでそう思って


いたのです。しかし、それは全くの幻想にしか過ぎませんでした。


 娘を部屋に入れた私は、祈祷書を静かに声を出して読み始めました。夫のコル


ラードは、ここの所、慌しくしていて、今も家を留守にしています。夫が今日の出来


事に何か関わりがあるのではないかと、それがとても気掛かりですが、私たちに


は何も話そうとはしません。こんな日に傍にいてくれたら、どんなにか心強いので


すが。


 その時、通りの方から、年取った女の人でしょうか、悲鳴に続いて、震えるよう


な声で一心に祈る声が聞こえてきました。私は耳を塞ぎ、外からの何者にも気


取られないよう、一心に祈りを捧げました。恐怖に負けてしまうわけにはいき


ん。自分は娘のアンナを守っていかなければならないのですから。



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3 ルチアーノ、(そして、エンリコとジェラルド)

 

  1641年当時 15才、裁判結審の日の朝

 

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 その日は奇妙な日になりそうだと、未だ何も始まらない内から思い始めていま


した。昨日までの興奮はどこへやら、こんなはずではなかったのにと、すっかり


気持が萎えてしまいました。


 ぼくは学校の友人二人と連れ立って、城の外へと急いでいました。ひとりは市


長の息子のエンリコ、そして、もうひとりはジェラルド、商家の息子です。ぼくた


ちは親には内緒で――言えば反対に遭うに決まっていますから――待ち合わせ


をして、裁判を見に行くことに決めました。自分はまったくの好奇心から二人を


誘ったのですが、そして、この二人も自分と同じく、面白半分で裁判を見に来た


と思っていたのですが、どうやら、それは間違いだったようです。この二人は今


日の事について、自分とは全く違った見方をしていることが、道すがら自分にも


薄々と分かり始めたのです。


 街中の大人たちが、同じ場所を目指して歩いているかのようでした。その中に


混じっているのは、河の流れにでも飲み込まれたような心地がしました。泣いて


いる者、笑っている者、怒っている者、恐怖に青ざめている者――悲喜こもごも


の表情を浮かべた人々が、城門の外へと流れていくのです。そして、そんな人


々の表情と同様、ぼくたち三人の表情も一様ではありませんでした。 


 エンリコは非常に興奮していて、もともと色白な顔が蒼ざめて見えるほどでした。


彼はいつも背中を丸めて、俯き加減にゆっくり歩いている印象があるのですが、


この日ばかりはまるで別人のようで、一心に先を急いでいました。遠くを見ようと


して背伸びした時、彼の背中が不自然に盛り上がるのに気が付きました。普段


は殆ど気が付きもしないのですが、以前、彼が骨の変形する病気に掛かったこ


とがあるという話を、その時ふと思い出しました。


 普段は寡黙な彼が、まるで熱に浮かされたように喋っていました。「悪魔の手


がこんな所にまで。俺たちは一体どうすればいいんだ」「自分たちにも何かできる


ことがあるはずなのに」私は曖昧に彼の言葉に相槌を打っていましたが、本当


のことを言えば、今日の出来事をそんな風に考えたことはありませんでした。自


分の周りでこんなことが起こるのは、確かに恐ろしい話ではありますが、自分に


直接関係のある話とも思ってはいなかったのです。


 一方でジェラルドは、黙ったまま口を利こうとしません。もともとはどちらかと言


えば悪ふざけが過ぎるぐらいの奴なのですが、この日はなぜか塞ぎ込んで、話


し掛けても唸るような返事が返ってくるだけです。彼が何を考えているのか、推


測することしかできませんが、周囲に対しては明らかに強い敵意を抱いているよ


うでした。今に何かとんでもないことを口にするのではないかと、ひやひやしまし


た。下手なことを言って、それを他人に聞かれでもしたら、何が起こるか分かっ


たものではありません。


 城門を出た所では、街の印刷屋が事件のことを記したビラを売っていて、人々


は奪い合うようにして、その粗末な印刷物を覗き込んでいました。自分も金を払


って一枚を手に入れましたが、殆ど文字など無く、荒っぽい図版が大部分を占


める代物です。その僅かな文字さえ読める者はそんなに多くはなかったでしょう。


しかし、読むことのできる者なら、紙面の上段に書かれた一文が嫌でも目に付


いたはずです。


「悪魔に魂を売った美貌の女教師とその仲間、神の裁きに」


「マレドの花と謳われた美しい女教師は、触れたもの全てに災いをもたらす猛


毒の棘を持っていた。誉れ高き淑女は世を欺く仮の姿だった。その飽くことのな


い淫らな欲望を満たすため、女は夜毎、悪魔とそのしもべたちに惜しげもなくそ


の体を捧げた」


 裸の女たちが山羊と人間の中間のような怪物と交わる扇情的な挿絵の下には、


さらに文章が続いています。街の男たちは、専ら絵の方を――正直なことを言う


と、自分もその絵に興奮を覚えずにはいられませんでした――食い入るように


眺めていて、殆ど文字など読んでいません。尤も、そこに書いてあることは既に


殆ど知れ渡っていることばかりではありましたが。


「二十五歳の女教師マルティーナは、その美しさばかりではなく、淑女の鏡とし


て、人々から慕われていた。しかし、そのマルティーナの化けの皮が剥がされる


時がやってきた。夜、全身に膏薬を塗って獣に姿を変え、サバトに行く所を羊飼


いに目撃されたのだ。そして、魔女として告発される時がやってきた。キリストの


忠実なるしもべにして、不屈のドミニコ会士、審問官ジョットー様は直ちに女を捕


らえ、取調べが始まった。厳しい取調べの結果、女が告白した話は、数々の魔


女と戦ってきたジョットー様をも仰天させる内容だった。このマレドの街には、善


良な市民のふりをした多数の魔女が巣食っていたのだ。ひとりは良妻賢母とし


て名高い教婦長マルタ。そして、マルティーナの同僚でもあり、その快活な人柄


で人気者だったイルヴァ。芸術の庇護者として知られる貴婦人ロレーラ。さらに


は、美しい歌声で知られる美貌の歌手ジュリエッタ。これら若い娘たちの手本と


して人々の尊敬と憧れを集めていた女性たちが、夜毎、悪魔との淫らな饗宴を


繰り広げる魔女だったのだ。こうして告発されることが無かったならば、まずは


無力な子供たちから先に悪魔の餌食となり、すぐにも街は悪魔の手に落ちてい


たに違いない」