今夜が山だそうだ。

今は自宅で待機。

母が泊まり込みしている。

明日朝一番で病院に行くってのに、ちっとも眠れないから、ICUから出た後の経過を追って行こうと思う。


ICUから出た後、白血球と血しょう板は順調に増えた。

けれど赤血球は増えず。

何より問題だったのは、腎機能の低下。

透析も視野に入れていた。

もう10年以上も前に亡くなった父の父は、腎臓を病んでずっと透析をしていた。

父は透析を恐れた。

先生は、腎臓に負担をかける薬を全て止めて経過を伺っていた。

次第に、ゆっくりと、腎機能は回復しだした。

しかし、初めは左腕。
次いで右腕、左足、右足と、激しい痛みを訴えるようになる。

リハビリで頑張り過ぎると痛みが出るようなので、初めは筋肉痛だと思っていた。

けれど、痛みはどんどん激しくなり、痛み止めとして、麻薬の一種を使う様になる。

並行し、血液検査の結果に変化が現れた。

良くない方の変化だった。

LDHが上がってたきた。

そして、血しょう板の数値が減りはじめる。

先生は、動けない父をベッドごと移動し、私達みんなを集めて話しをした。

「再発です。」

一時、寛解状態ではあったけれど、骨髄を顕微鏡で調べた所、正常ではない細胞があったそうだ。

入院して最初の骨髄検査では、ゼリー状のはずの骨髄が繊維化していて、細胞が注射器で引けなかった。

今回は無事に引けたから、希望が差したと思ってた。

けれど、白血病の猛威は収まらなかった。

先生は提示した。

この先の治療。

最初の抗がん剤治療に使ったのは、キロサイドと、イダマイシンと言うとても強い薬。

これは、リスクが高すぎた。

ICUに入り、大変な修羅場を乗り越え、体制が整わない父の体では堪えられそうもなかった。

次いで、とにかく経過を見るか。

ただ、四肢の痛みは、病気の勢いが増して、骨の中からの痛みらしく、
これほど激しい痛みになるほどの勢いがあるのを傍観して経過を見るのも危険すぎた。

父が選んだのは、サルベージ療法だった。

キロサイドを20倍に薄め、じっくり2週間体に入れる。

寛解を目的とはせず、とにかく病気の勢いを止める最終手段だった。

翌11月1日より、すぐに治療が開始された。

最終の抗がん剤治療では首の近くから管を入れ、点滴に物々しい機械が設置されていたが、
今回は普通の点滴と同じだった。

薄めているだけに、最初よりずっと副作用は少なく思えた。

2週間の抗がん剤投与を終えて驚いた。

薬が効きにくいと言われるM7なのに、とんでもなく効いているのだ。

そして父には秘密にしているが、7番染色体に異常があり、これが、予後不良を決定付ける物だったのに。

白血球がみるみる少なくなり、LDHもぐんぐん落ちた。

炎症反応も少なくなって腎機能も回復してる。

熱が上がったり、調子が悪かったりはあったが、嬉しいニュースばかりだった。

体の痛みも徐々に減り、父もリハビリを頑張って、体もだいぶ動かせる様になった。

ただ、精神安定剤を飲むようにはなったけれど。

まだ止めてない痛み止めの麻薬の一種は、パッチ状で体に張っている。

これが眠気を誘発し、さらに悪夢を見せた。

心を蝕む悪夢。

夢と現実がまぜこぜになった。

それでも、経過は良かった。

収まらない吐き気が、心配の種ではあったが…。


3日前、もう4日前になるか。

39度の発熱があり、それからガタガタと急変した。

今日のレントゲンでは、肺が真っ白になっていたそうだ。

また感染した。

酸素吸入を10㍑に増やしても、体に行き渡らなくなった。

さらに心肥大していた。

発熱していた時の脈は異様に早く、心臓に負担をかけていたのだろう。

尿が出なくなったのも原因の一つらしい。


木曜の夜、先生から話があった。

私は仕事だったから聞けなかったけれど、また再発の可能性が高いという事だった。

週末は様子を見て、骨髄検査をする予定だった。

しかし、今日のLDHの数値は、検査しなくとも明確に再発を示していた。

一気に倍になっていた。


緊急時だけ、職場に連絡をする様にと伝えてあった。

職場に電話が来て、私は忙しさがピークを超えはじめたばかりの職場を後にした。

病院に行こうと思ったが、時間的に父はもう寝ているし、とにかく帰って来いと姉が言うので、家に急いだ。

気丈な姉も、心細かったに違いない。

帰ると、家で、一人、椅子に座って、父の血液検査結果の紙を泣きながら見ていた。


もう祈るしかない。