近年移り行く、大人になる人々の件 | sick

近年移り行く、大人になる人々の件

人は、人生の中にある様々な転機を介して、変わっていく。

たとえば最近、身近なところで子を産み親になる者がいくつもある。

人の子の親になれば、人は変わると言う。

まさにそれを目撃し、その迷信のような伝聞が事実であることを確信しつつある昨今、我が身を振り返ってみると、確かに自分も様々な出来事を介して変わってきたのかもしれない。


その一方で、

子を儲けていないにも関わらず、既に子の親のような風格を漂わす者あれば、

「お前、ぜってぇ十代の頃から変わってねぇだろ」と言わしめる者もある。




それはさておき、

私はいまだ子もおらず、独身である。

つい最近のことであるが、懇意にさせていただいている親しい友人が出産した。


「まさかお前が母親!?」

「まさかお前が父親!?」


そういう心情が少なからずある。

それは否定的な感情ではなく、単なる違和感に過ぎない。

言うなれば、

母国語を一切話さないくせに、日本語は流暢なイギリス人さながらだ。


さて、何を問いたいかと言うと、


「親になれば、人は本当に変わるのか?」ということに尽きる。


結婚するまでは外道や畜生であったにも関わらず、それを機にまるで人が変わったように真人間になった──


こういう話はよく聞く。


「おおらかなあの夫婦が、出産と同時につるせこ一家になった」


こういう話もよく聞く。


私自身は、誇張でも謙遜でもなく、おそらく紛れもない畜生でありろくでもない人生を歩んできたであろう自覚がある。反省すべき人生の汚点を、吐いても捨ててはいけないような生き方をしてきてしまった。


そんな私は、どう変わるのだろうか?


おそらく、人を変えるのは社会であろう。


突き詰めれば責任。


自己の振る舞いが、周囲にどれだけの影響を与えるかを知るまでに、人間、そう多くの時間はかからない。


問題は、その責任をどれだけ重く受け取るか、だ。


結婚や出産をすると、きっとその責任を改める。


人生は責任がつきまとうもの。


そして、責任の先には愛があり、情がある。


人とは果たして、そうして人らしくなり、ありをりはべりいまそかり。


何これもうめんどくせ。







良くも悪くも、人って「変わる」よね。


ただ、


「出産」ってのは、すごく大きな転機だと思うのです。夫婦にとって。人にとって。


たとえば、子どもが幼稚園に入るくらいの歳になったとしますよ。


そうすっと、「ママ友」的な横のつながりができてくるわけ。


嫁が、自宅にママ友を呼んでお茶会みたいなこともすると。


で、そんな中にケチセコママとかクレクレママとかドキュンママとかポストオバタリアンもいるかもしれない。


今の俺だったら「おいコラてめぇら」ってなるわ。


出会い頭で喧嘩腰なんて、俺の場合、あってもおかしくない。


そんで、多分これからもそうだ。


「ちょっと!正しいか正しくないかなんて関係ないの!私の顔をたてると思って、ママ友達には愛想を振りまいてよ!旦那なんだから!」なんて要求されても、俺には到底無理。ふざけんな。良識もねぇ自己中心的なクソ価値観をまとったAKB48(あからさまに48匹のブタママ)と付き合っている嫁を糾弾してぇくれぇだ。


そんな女は、ママ友に「これ、北海道産のおいしい湧き水だよ」なんて言われて、平気でエキノコックス入りの川水を口にするんだろう。世の中、信じらんねぇくらいバカな奴ってけっこーいるからな。


こわいこわい、相手選びは慎重に──だ。





郷に入れば郷に従えと言うが、俺の郷はここにある。


それってのはつまり、思いやりとか配慮とか気配りとか謙虚さとか、そういう人としてごくごく当たり前の郷だ。


それを脅かされそうになった時、俺は郷を捨て聖帝なんたらとなり、暴力と威圧と制圧前進、時には法律と弁護士を味方につけて徹底的に叩きのめしてやろう。


そのくらいの強さがないと、はっきり言ってこの肥溜めみたいな人間社会で、ストレスなく生きるなんて不可能だ。


俺はクレーマーじゃないし、キチガイでもない。

自分でそう名乗る奴ほどあやしいけど。

少なくとも今は良識を持って生きているつもりだ。

でも、

「正直者はバカを見る」という言葉通り、世の中、声のでかい奴や暴力にためらいのない奴や非常識標準装備な奴の不条理な要求が正義となるケースが少なからずある。

そして、

正直者ほど、そういう奴らに搾取され、振り回され、傷つけられる。

グッと我慢して耐え忍ぶことも一つの美徳かもしれねぇが、

そんな理不尽なストレスを甘受しなければならない状況なんて見てらんねぇ。

その理不尽を圧倒的な暴力で制圧する正義があってもいい。


まっとうなことではねぇかもしんねーけど、


まっとうな生き方をするということはつまり、


その“まっとう”に対するリスクを背負うということなのだろう。


暴力が正義だとは言わないが、


暴力が正義になる場合もある。


肝心なのは、


良識あって平和的な人間が、暴力や非常識に制圧される道理が通っていいのかってことだ。






人間は、変わんねぇ。


カカオはチョコになる。


牛の乳はバターになる。


でも、


畜生は畜生のまま、聖者は聖者のままだ。


「人間が行き着く先は、天国か地獄だ」というのは、


こういうことを差しているのだろう。


だったら俺は、変わりたくないわよ。