キャバクラ遊びは正しいのか否か | sick

キャバクラ遊びは正しいのか否か

こんあんあ、AB型のふたご座です。


僕はここ数年の間にキャバクラ遊びをたまにするようになったけど、以前はキャバクラってのが大嫌いでした。それこそ、プライベートはもちろんのこと、付き合いでも重い腰が上がらないくらい毛嫌いしていたところがあって、それって言うのはね、結局女好きだったからなんでしょうね。


風俗はいまだに好きじゃなくて、これもう率直に言ってしまうと、僕、風俗ってのはこれまでの人生で一度しか行ったことがない。それも、すげーお世話になってた先輩と言うか、直属の上司の顔を立てるためっつー、まぁ、付き合いってやつです。男社会ってこういうバカげたところありますからね、まぁ、女社会はもっと露骨にひどいのかもしんないけど。とにかく、僕もまぁご他聞に漏れずその社会の波に揉まれることを甘受したっつー事。


本音はこう。


「なんで金払ってまでセック○スすんだよ。別に困ってねぇわ」


キャバクラってのもこれに似ていて、若い頃はやっぱり自尊心とかプライドとか、そういうのもありましたから、素直に「なんで俺が女と酒飲んで金払わなきゃならねぇんだ」「キャバクラなんて、モテねー奴が行くとこじゃねぇか」というね、まぁ、おそらくマイノリティーであろう世の中のかっこ悪い男どもに対して弁明的な言い方をすれば“ひねくれた考え方”を持っていたところがある。


それが、なぜこの歳になってキャバクラへ行くことに抵抗がなくなったか。


いくつか理由があるんですが、まず、「俺なんかもうおっさんだし、太ってきたし、まぁ昔ほど女はべらせるくらいの魅力なんてねぇよ」っていう感情。


まぁ、自虐的と言えばその通りなんだけど、実は僕自身はその衰えた現実をあまり悲観的に受け取ってはいなくて、だから、肉体とか容姿の衰えってのはあまりコンプレックスになる類のものではないんですね。


昔だったら、自分の容姿に根拠のない自信を持っていましたから、そりゃあもう、女と見ればかたっぱしから口説いてやりてぇなんて思うわけです。女好きな男はそういうもん。所詮ね。


今は、その自信が良くも悪くもなくなったので、変な下心を持たずにその場の雰囲気を素直に楽しめるようになったんでしょう。


まぁ、本当にキャバクラが好きって人は、それこそ週に何度も通うくらいの勢いだし、僕なんて別に「キャバクラに遊びに行くようになった」ってだけで、「キャバクラ好き」になったわけじゃないですからね、やっぱりどこか根本的にのめり込めないところはあるんでしょうな。

まして、一人で行くなんてことは皆無で、やっぱり「誰と行くか」ってのがすごく大切。僕なんか、ふつーに女性を連れて一緒にキャバクラに遊びに行ったりしちまいますからね。キャバクラにしろホストクラブにしろオカマバーにしろ、基本的には男よりも女の方がそういう場所が好きなんじゃねーのかと思うくらい、大体の女は楽しむ。




で、なんでキャバクラの話をしたかと言うと、

キャバ嬢って、ほとんど例外なしに血液型の話題を持ち出してくるでしょ。

あれがね、僕は嫌いと言うかめんどくさいんですよ。

ドラキュラか!っつーね。


ただ、物事には何でもしかるべき役割というのがあって、それこそ血液型占いなんては、占い全般や心霊なんかと同じように、エンターテイメントとして純粋に楽しんでこそなんぼ。だから、僕のように「そんな何の根拠もない話をされても楽しくねぇ黙ってろ」なんて言う人間は、これもうナンセンスとしか言いようがないんだけど、


ただ!


僕がなぜそこまで血液型の話題を嫌うかと言うと、

それを純粋にエンターテイメントとして楽しめてない奴があまりに多いからなんです。

つまり、「信じちゃってる」人間。

こういうレベルの人間とはそもそも話が噛み合わないというのを自分なりの経験でわかっているんで、血液型の話を熱心に始められた瞬間に「うるせぇ黙れ」と、なってしまうわけです。




これだけじゃない。

たとえば、世の中にはアホみたいに何かを信仰している人がいますわな。

まぁ、信仰にも色々な役割があるけど、

宗教を批判するわけじゃなくてね、

細かい僕の言い分は省略して簡潔に要点だけ言わせてもらうと、

基本的に信仰ってのはモラルを育てるものであって、エセ科学を無知な人間に信じさせるべきものではないでしょ。

ところが、

不思議と信仰という媒体を通して、エセなものを信じ込んでしまう人はあまりに多い。

イメージとか、直感とか、印象とか、そういうものも大切だけど、

それを「大切だ」と言えるのは、

本当のところ、それなりの経験と知識とドタマの回転数を持っている人だけですよ。

これらを持っていないのなら、

それを身につける努力をするしかない。

でも、

それが億劫で、できることなら省略したい、早く答えが欲しい──なんて思うから、多くの無学な人や無教養な人、無知な人ってのが騙されていくわけ。



僕、物を書く仕事をしていてこういう事を言うのもアレなんだけど、

言葉なんてのは、虚構でしかないと思っています。

たとえばこうしてブログを書いていても、

僕が考えていること、そのすべてを文章で表現し切れることなんてない。

評論にしろ論文にしろ小説にしろ、絶対的に完璧なんてことはありえないんですよ。

なぜなら、

そもそも言語というものが、人間の脳みその中で展開しているものを正確に表現するにはあまりに不完全なものだからです。

だから、

小説なんかは特に比喩なり倒置なりで“感覚的”に訴えようとする。

広告のコピーなんかにしてもそういうことです。


「プロの物書きは、言葉を完璧に使いこなしてなんぼだ!」って言う人間がいるなら、まぁ、その意識を持つことはプロとして大切だけど、本気でそう思ってんならまずはお前がプロ失格だと言いたいし、こういうことを言う時点でその人間は冷静じゃないと、単純に思います。


要は、人のコミュニケーションの根本たる部分を構築している「言語」というものが、そもそもそれほどの力を持っているものじゃねぇんだぞと。言葉にすごく影響力があるように錯覚するのは、それ以外の何か付加的な力が働いているからなんだぞ──ということですね。


つまり、人ってのは言葉ってのを客観的に受け止めているのではなくて、あくまで自分の中にある先入観なり主観なりで「受け取ったメッセージ」という幻を作っているんです。

どう好意的に解釈しても、そもそもコミュニケーションってのは受信者の「推測」とか「想像」があって成り立っているものですから、発信者の意図を寸分も間違わずに正しく理解するってのは、ほとんど不可能なわけですよ。ですから、「言葉ではなく意図を正しく理解する」ためには、発信者だけでなく受信者にも相応の力が必要なんです。


愛する人を、抱きしめたくなることってあるでしょ?

それは、自分の感情を言葉で表現するだけじゃ足りないからだ。

所詮、言葉なんてその程度のもんでしかないんですよ。


一応付け加えておきますが、言語というツールが人間にとって非常に大切なものだということは、僕も確信しています。ただ、発信者、受信者ともに人間である限り、それを完璧な形で使いこなすことは極めて難しいものだと、こういうことを言いたいわけね。当たり前のことのようだけど、この原則を理解していない人があまりに多くて不思議な気持ちになっちまう。




物事を合理的に考える頭があれば、こういう事を理解するのってあまり難しい事ではないはずなんですよ。

ところが、世の中には、言葉に騙される人間があまりに多いわけ。

その典型とも言えるのが、血液型占いをはじめとしたオカルティックなコンテンツなんですね。





その一方で、

今の僕は合理的にキャバクラを楽しんでいるわけではない。


昔は、たとえば「女を落として劇的な恋がしたい」とか、単純に「セック○スをしたい」とか、「それで優越感なり支配感なりの満足感を得たい」という、実益に繋がるような合理的な動機というものがあった。


ところが、

今の僕にはほとんど完全にそういう合理的な動機なり欲求ってものがなくて、ただ「騒ぎたい」とか「楽しみたい」という、「直感的」な感情を動機にしてそういう場所に行く。


直感的に物事を信じ込んで騙されるケースもあれば、直感的に何かを楽しめるケースもあるというね、こういうところに人間らしい矛盾が存在しているんでしょうね。これが、人間の素晴らしいところであり、はたまた愚かたる所以でもあるのでしょう。


「音楽」なんて直感的で感覚的なものだって思われがちだけど、そんなことないですからね。


世の中、嘘ばっかの言葉に溢れてますし、それに加えて今のこの情報社会です。リスナーの「言葉に対する猜疑心」ってのは、どうしても育ちやすい環境になっているわけですよ。


「この人は、本当に真心から曲を書いているのか?それとも、格好ばかりなのか?」っていうね、そんな詮索をさせる音楽なんて、僕に言わせりゃエセだ。


え?クラシックはそうじゃない?


そりゃそうだ。


あれはメッセージ性のある音楽じゃないもの。


クラシックを愛好する多くの人間の動機は、そこにある様式美を楽しむか、懐古的になっているか、テクニックを楽しんでいるか、クラシックについて無知か、想像力が豊かかという、まぁ、こういうような感じで「割り切り」にも似た動機があると思うよ。これはクラシックだけに限らないけども。


まぁ、こういう理由で「俺は本当に伝えたいものがある時しか歌詞を書かないし曲も書かない」というカッコいい言い訳をすることもできるんですが、まぁ、僕の場合はただめんどくさいだけ。





とにもかくにも、

世の中、信じるに値するものなんてあんまないと思います。

それこそ、古今東西、性格の悪そうな奴がよく口にしてきた「信じられるのは自分だけ」ってね、これ、まぁ言い得て妙よ。「俺は自分を信じている!」って覚悟を持ってそう言う奴ってのは、自分が信じていたものに騙された時、「自分が未熟なせいだった」って受け止めることができるからね。


一方、

浅はかな動機で「信じられるのは自分だけ!」と言う奴ほど、何かに騙されたり後悔したり未練を残したりした時に、それを他の誰かや何かのせいにする。


人生、色々な事情なり理由なりあるけど、基本的には人生自己責任、人生自業自得って意識を持って生きる奴の方が、数年後、数十年後にその意識の差ってのは必ず出てくると思います。


何かを信じる純粋な心というのは大切だけど、

それを、虚構の谷に落ちている「存在感だけはある言葉」達に預けるのは、これ、あまりに割りに合わない生き方よ。


つまりだ、


キャバクラ行って楽しむのはいいけど、

キャバ嬢に貢ぎ続けるような生き方はしねぇ方がいいんじゃねぇか?っつー話。


キャバクラ遊びは正しいか否かって?

それは、本人の資質によるところが大きいとしか言いようがねぇよね結局。

俺は正しい遊び方ができているのかっつーと、

うーん、

まぁ、行く度に使う額が小さくないから、あまり正しいとは言えねぇかもな。

ちぃとばっか自重するわ。






さて、ずいぶんと長々と書いてしまったけど、

こうしてみると僕という人間が非常に合理主義というか、現実主義のように感じられてしまうかもしれないけど、そんなことはありません。むしろ、目に見えるものしか信じられなくなってしまうと、それこそ人は最終的に拝金主義に走る。


で、「じゃあ直感的に信じられるものなんてあるのか」となると、僕が思うにそれは「自分に向けられた他人の愛」だと思うんですよね。


自分自身の中にある他人に向けた愛ってのは、これ、エゴだと思ってるくらいがちょうどいい。


人が自分に向けてくれる本物の愛を信じる。感じ取る。

こういう感覚的な作業が、実は人間社会で一番大切なのではないのかなーと思います。


ただ、


他人から本物の愛を向けてもらうには、自分の中にもその人に向けた本物の愛がなければいけない。


これを「愛の証明」と呼ぼう。


つまり、自分の中にある愛が本物がどうかってことを証明できるのは、これ、自分自身ではなくて他人なんですよね。


だから、人の思いやりとか優しさとか、打算のないそういう真心に触れた時、人は感動するわけです。


一方、独善的な愛を人に向ける自分本位な人間ってのは、「余計なお世話」なり「お節介者」として嫌われる。当事者は「こんだけ一生懸命にやってるのに!」って文句言うけど、その愛が自己中心的なものだってことにはまるで気付いていないってケースが多いわね。




直感的に生きるのは悪くない。

ただ、その道を正しく歩むためには、相応の経験と知識とドアタマ、それに加えて、正しい形で人を愛せる美しい心を持っていなければ危険だと、こういうお話でした。


次回は、おいしいヌカ漬けの漬け方についてお話しします。


じゃ。