中立的生き方 | sick

中立的生き方

世の中、ほんと色々な人がいるね。


本当は皆同じ人間なんだから、同じ価値観を共有し、同じ人生観を共有することもできるはずなのに、

何故かそうはならない。

たとえば“生き方”とか“ポリシー”とか“信念”とかね、

これってなんなんだろうね。


やっぱり、人間社会で生きる上で一番大切なことは、

「客観的、中立的な考え方ができること」だと思うんです。

物事と真っ向から対峙できる聡明な人達ばかりになれば、

争いなんてなくなるわけですよ。


ところがそれを邪魔するのが、

エゴや自尊心や習慣ってやつ。

いわゆる先入観。


蛙の子は蛙じゃないけども、

やっぱり自分と違う生き方をしてきた人の感覚を理解するのは難しい。

でも、

理解しようという姿勢を持つことは大切でね、

それを肯定できることも大切だし、

否定できることも大切。

肯定できないのなら否定はするな。

否定できないのなら肯定するな。

何事においても肯定できる部分と否定できる部分は必ずあるわけです。

だから、

どちらか一方しかできないということは、

つまり「自分の考え方、感じ方は偏っている」ということなんだな。


中立的な物事の考え方を一貫し、

批判するなら代案を用意する。

とにかく、

肯定するなら否定もできなければならないし、

否定するなら肯定もできなければならないということを、

僕は常に念頭に置いています。


だけど、

そうじゃない人も世の中にはたくさんいる。

「あそこのお寺のお札、高いけど絶対買った方がいいよ!」とか、

「私の入信してる宗教は本当の宗教だから、入った方がいいよ!」とか、

「毛皮製品なんて絶対に買っちゃだめよ!」とか、

「捕鯨反対!」とか、

「これが私の生き方なの!」とか、

「政治家を殺せ!」とか、

そういう人達には、決定的に客観的・中立的視点が抜けていると思うんだけど、

他者がそれを正すことは非常に難しい。


そういう人達を見ると、「中立的な立場を維持することって、そんなに難しいことだろうか?」と思うんだけど、

やっぱり人間、生きていくうちに価値観や習慣ってのが徐々に構築されていくからね、

だからきっと、歳をとるほど頑固になっていくんだろうね。

僕はそんな大人にはなりたくないので、

常に、何事に対しても客観的な考察は欠かさないように心掛けています。


ただ、

これもある意味“偏った考え方”なのかもしれない。

何が中立的で何が客観的なのか、

そんなこと誰にも判断できないからね。

少なくとも、

器の大きな人間になりたいと思う。


でも、

気性の荒さはどうにも直らないね。

これはもうこれで仕方ねーのかなと、最近やや諦めかけているトホホだぜ。