小説「電圧をください」
ある男が私の腕の中に横たわり、その男はこう言う。
「水を、水をください」
男は疲れきっており、衰弱している。その原因を彼の口から聞くには、私はまず彼に水を与えねばなるまい。しかし私はそこでふと周囲を見回し、些細な疑問を抱く。
「ここはどこだ?」
気がつけば私は便所にいた。アンモニア臭の立ち込める、ひどく不潔な場所であった。男の姿はなく、私の目に映るのは三つの薄汚れた簡易便器と、そして消滅まで間もない華奢な惑星のように明滅する、黄ばんだ室内灯だけである。
足を一歩踏み出すと、靴の底からガラス片のぶつかり合う感触が伝わってきた。見ると、そこかしこに割れたガラスが散乱している。顔を上げてもう一度周囲を見回すが、窓らしきものは無い。途端に私は恐怖に駆られた。
「一体どうなっているんだ?ここはどこなんだ?私はどうかしてしまったんだろうか」
そこに窓はなかったが、ただ一つドアが備えられていた。木製のドアは装飾が施されていない。いや、もしかすると何らかの装飾は施されていたのかも知れないが、いずれにせよたちこめる闇と埃でそれを確認する事は到底無理であった。
私はドアに向かい歩き、そしてノブへと手を伸ばす。金属の冷たい感触が私の身を震わせた。
錆び付いた蝶番が、下水溝でうごめく鼠達のような悲鳴をあげる。甚だ不快な音であったが、この場所から出たいという強迫観念にとらわれた私は、手早くドアを押し開けるとそのまま部屋の外へと飛び出した。
そこはロシアであった。
先ほどの男が、私の前でコサックダンスを踊っている。
「ロシア!いいよ!ロシア!乾杯!ロシア!ジャムパン!」
そのような言葉を発しながら、彼はひたすらコサックダンスを踊っていた。私はこの時点でもはや正気を失っていたと言ってもいいだろう。状況を理解することなどできるわけもなく、無意識のうちに私はこう叫んでいた。
「いい加減にしてくれ!」
辺りに静寂が立ち込める。
音の無い世界。
何も無い世界。
大地と呼べるものはなく、そこには空気さえまるで存在していないかのようだ。
私は電極になった。
私は電極だった。
そう、私は電極だったのだ。
つまり、
生きるとはこういう事なのだと、
電圧を待つ私は、
何も無い世界でただただ生きる事について考えていた。
了