Q,「開眼」とは?
開眼とは、一般に、新たに造った仏像などに眼を描き入れ、仏の魂を迎え入れることをいいます。
日蓮大聖人は『本尊問答抄』に
「木像画像(もくぞうえぞう)の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」
(御書 一二七五頁)
と仰せられ、
『四条金吾釈迦仏供養事』に
「此の画木(えもく)に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入るゝ事は法華経の力なり (中略) 画木にて申せば草木成仏と申すなり」
(御書 九九三頁)
と説かれています。
第三十一世日因上人は御消息の中で
「木絵の二像は本(も)よ草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲なり。日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是なり」と仰せられ、
第五十六世日応上人は
「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し、一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教 二七‐四七四頁)
と仰せのように、
本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。
解 説
御本尊の開眼の必要性に疑義を呈している質問ですが、その根底には、血脈への疑義、すなわち御法主上人の立場を蔑ろにするという意図があります。
そもそも大聖人が御指南のように元来、紙や木でも、「魂魄(こんぱく)という神(たましい)」を入れるからこそ御本尊としての功力を有するのです。古来より、御本尊に関しては、大聖人以来の唯授一人・血脈相伝に基づく、御法主上人による開眼供養がなされた上で、各末寺を通じて信徒へ下付されています。その証として、御本尊をお包みした袋の表紙には、「総本山」と認められています。
かつては創価学会の第二代戸田会長もこの大事を知って、
「戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのであります。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。
(中略)
ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネテ作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐しい毒薬の働きをもつのであります」(大白蓮華 昭和三十一年七月号)
と、まことに正論を述べていました。
今や、この自分たちの主張によって破折される、邪宗になり下がってしまった創価学会に哀れみを禁じ得ません。
もし、開眼の必要がないのであれば、大聖人の御筆の本尊を、コピーして表具すれば、見た目は立派な本尊に仕立て上がります。しかし、これではまるで、身延の売店での本尊販売そのものです。
それを拝むことができますか?
それを大量に作製して人々に分け与えることが許されるでしょうか? 『ニセ本尊』も同一轍の大謗法行為です。
御法主上人御一人に具わる「深秘の法門」である開眼を無視し、誰でも開眼できるなどという暴論は、仏法を破壊する大謗法以外の何物でもありません。
まして「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」などと言うに至っては、御本仏をも恐れぬ慢心極まりない言説であり、仏を信じていない、御本尊を道具としてしか見ていない不信謗法の言葉です。
学会は、何かにつけ「信心があれば」とさえ主張すれば、すべてが解決できると押し通してやみません。しかし、大聖人の血脈相伝の仏法に背き、「戒壇の大御本尊を信仰の対象としない」ことを宣言した現在の学会の姿こそ、まさに誤った「信心があれば」の結果であり、頭破作七分・心破作七分の現証なのです。
かつては池田大作も、
「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」
(広布と人生を語る 8巻228㌻)
と指導していたのです。
「信心があれば」と言うところの「信心」とは、唯授一人の血脈に信伏随従する「信ずる心」でなくてはならず、池田大作を「信ずる心」では、成仏はおろか、謗法堕地獄への道を直滑降なのです
大白法・平成28年9月1日刊(第940号)より転載