今までのあらゆる角度からの論証に依って、
「日興跡条条事」に仰せになる『弘安二年の大御本尊』は、広宣流布達成の暁に、富士山本門寺本堂に、本門戒壇として御奉掲御安置される唯一の根本の御本尊であり、その意義から「本門戒壇」
と銘打たれている御本尊でなければならないであろう。
しかも『時を待つべきのみ』と仰せであるから、広宣流布が早晩達成するとは大聖人御自身も想定して居られなかった。
ということは遠き未来を見据えて、堅牢な材質によって建立されたはずである。
この道理から考えてもやはりそれは『弘安二年十月十二日御建立の戒壇の大御本尊』でしかあり得ない。
のだが、邪妄を成す者どもの蒙昧な迷信を斬るために、敢えてもし、現在の戒壇の大御本尊が弘安二年に建立されておらず、後の、例えば日有上人時代の偽作だと仮定したすると、日興上人御正筆である「日興跡条条事」に仰せである
『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊』は一体どの本尊か?
という問題が出てくる。
その考察するために、弘安二年御図顕の現存する御真筆御本尊を立正安国会・御本尊集に所収分と富要集に掲載されている本宗所蔵分を列挙した。
(鑑定に異見あり、御真筆判定においての真偽に若干の是非はある。)
1279 弘安2年
授与月日 授与書き(及び興尊加筆文)寸法 収蔵場所 備考 日亨上人の注釈など。
2 月日 釈子日目に之を授与す(天王の点の中に日興の二字存在す余の御加筆の文字は後人抹却したるなり)
94.9㎝×52.7(三枚綴り)(富要8―222)(本集60・桑名市・壽量寺)
2 月 妙心に之を授与す 88.8㎝×48.5(三枚綴り)(本集59・中山浄光院蔵)
4. 8 日向法師に之を授与す 89.4㎝×47.6(三枚綴り)(本集61・茂原藻原寺蔵)
8月18日 沙門佑盛日合に之を授与す (富要8-177)
9 月 日仰優婆塞に之を授与す 不詳(一紙) (本集66・和歌山蓮心寺蔵)
10.12 本門戒壇の大御本尊を造立す(右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆敬白、弘安二年十月十二日)
「本門戒壇の御本尊の寸尺、長四尺七寸五分、横弐尺壱寸七分、厚弐寸弐分御首題御勧請皆金薄入りなり、」(長143.9㎝ 横65.7㎝)
10 月 沙弥日徳に之を授与す 91.2㎝×49.1(三枚綴り) (本集67・新曽妙顕寺蔵)
11月 俗日増に之を授与す(日興上人御加筆)本門寺重宝たるべき(富要8-177)
11 月 優婆塞日安に之を授与す 78.5㎝×46.1(三枚綴り) (本集68・沼津妙海寺蔵)
11月 授与者 不明 59.8㎝×40.8(二枚綴り) (本集68の2 小田原市 淨永寺)
11 月 沙門日永に之を授与す 68.8㎝×45.2(二枚綴り) (本集69・京立本寺蔵)
▽ (弘安二年か)(興師御加筆)因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与へ申す、
(同上)本門寺の重宝たるべきなり、(富要8―222)(京都妙覚寺)
以上のデータから分ることは、
1,戒壇の大御本尊以外に全ての御本尊に授与者がいる。つまり個人に宛てて下付された御本尊である。 ↓
↓
一閻浮提総与、つまり、全世界の全衆生に授与された御本尊ではない。
(不明が御一体あるが、「一紙」であるからかなりの小幅の御本尊である。大小の大きさだけにこだわる訳ではないが「弘安二年の大御本尊」とは言い難い。)
2, 戒壇の大御本尊以外で次に大幅なのは、
「7 月 沙門日法に之を授与す 104.5㎝×54.5(三枚綴り)(本集65・岡宮光長寺蔵)」であり、次に大幅である
「4 月 比丘日弁に之を授与す 100.0㎝×53.0(三枚綴り)(本集63・峰妙興寺蔵)」
と比しても、「弘安二年の大御本尊」と呼ばれるほどに特段に「大御本尊」ではない。
ほぼ同寸と言ってもよい。
その次は、
「4. 8 優婆塞日田に之を授与す 97.3㎝×51.5(三枚綴り)(本集62・玉沢妙法華寺蔵)」であるが、
やはりほぼ同列の寸法である。
しかも、この全て、授与者がいる個人授与の御本尊である。
1,で指摘したごとく、全世界の全衆生へ総付された御本尊ではない。
逆に、戒壇の大御本尊だけが特段に大幅である。
「弘安二年の大御本尊」との御表現にぴったりである。
3,戒壇の大御本尊以外は全て紙幅である。 ↓
↓
遠き未来の広宣流布達成の時を指向し、長期に亘る保存を想定して御図顕された御本尊とは到底考えられない。
仏法は道理である。
簡略に以上の検証からしても、
遠き未来の広宣流布達成の暁に、富士山本門寺本堂に「本門戒壇」として御奉掲御安置される唯一の根本の御本尊として、堅牢かつ大幅の御本尊は、弘安二年に御図顕された御本尊中、戒壇の大御本尊以外、見いだすことができないのである。
もし、他に上記掲載の弘安二年の御本尊中に「この御本尊ではないか!」と主張する者があれば、
誰人でも遠慮なく申し出ていただきたい。
一緒に、再度検証していこうではないか。
真面目な論議なら大いに望むところである。