⑴
ある国に、パセーナデイという王樣がいました。
なまけものでした。
王樣は国をおさめなければなりません。
だが、その仕事も大臣まかせにして何にもしませんでした。
女たちを集て遊びまわったりぜいたくなご馳走をつくらせてたらふく食べたり、お酒を飲んでへべれけによっぱらったりしていました。
そのほかは、ぐうぐういびきをかいて寝てばかりいたのです。
そんな暮らしをしていますうちに、パセーナデイ王は、でぶでぶと、ふとりはじめました。
あたり前のことです。だれだって、食べて、寝て、遊んでいましたら、太るにきまっています。しかし、パセーナデイ王のふとるのはとまりませんでした。
太って、太って、しまいには、まるでふくらし粉でふくらませたように、でぶでぶと、でっかくなってしまいました。
歩くのも、たいぎでした。ちょっと、身体を動かすと、はあはあと息が切れて苦しくてなりません。
しまいには、じっとしていても苦しいのです。
寝ていても苦しいのです。「ああ、苦るしい、苦るしい」。と、王樣は、あえぎながらいいました。
「どうすれぱいいのじゃ。誰か助けてくれい…」
⑵
パセーナデイ王は、家来にいいつけてかごをつくらせ、それにのって、御釈迦様をたずねていきました。
そして、えらそうにして、いいました。
「わしは、苦しうて、死にそうじゃ。あんたは、なんでもしっとるそうじゃが、わしは、何の罪で、こないにしんどいめにあわんならんのか、そのわけを、教てくれ」。
御釈迦様は、笑って、お答えになりました。
「ふとりすぎるからですよ。」
「人がふとるのには、五つのわけがあります。」
一つにはたべすぎること、
二つにはねすぎること、
三つにはあそびすぎること、
四つにはなんにもかんがえないでぼんやりしていること、
五つにはしごとをしないことです。
「楽にくらしたいと思われるのでしたら、腹は、いつも八分目に食べて、わきめもふらず、王樣の仕事を一生懸命になさるがいいでしょう」。
王樣は、ふうふういいながらいいました。
「よし、そんならいっぺんあんたのいうとおりにしてみよう」。
⑶
御殿にもどってきますと、パセーナデイ王はそのいいつけを守って、食べ物をへらしました。
いままで、大臣まかせだった王様の仕事を、自分でやりました。
自分でやリますといそがしくって遊んでなどいられません。
どうすれば、民をしあわせにすることができるのかと、いろいろと考えねぱならないことで、いつぱいです。
王樣は、よく考えて、民が、すこしでもしあわせになるようにと、つとめました。
なまけものだった王さ樣は、とてもまじめな王樣にかわりました。
すると、いつのまにか、でぶでぶだった身体が、だんだんやせていきました。
やせていきますと、あれほど、苦るしかったことが、けろりとなくなってしまいました。
それぱかりではありません。
身も心もしゃんとして、生きている事が、楽しくってしかたなくなリました。
そんなになって、パセーナデイ王は、はじめてしみじみと、
「これというのも、あのとき、人にものをたずねにいきながら、あんなにえらそうなくちのききかたをしたのに、おこりもしないで、親切に教てくだすったお釈迦様のおかげだったのだ。」
と、いうことに気がつきました。
王樣は、それに気がつきますと、もう、じっとしてはおられませんでした。
⑷
パセーナデイ王は、さっそく、歩いて、お釈迦様をたずねていきました。
そして、前とはうってかわって丁寧に頭をさげて、お礼を申しあげました。
「ありがとうございました。人間の本当のしあわせは、おいしいものを食べたり、酒を飲んでさわいだり、遊んで喜んだりして、死ねば、ほろんでいってしまう、身体をたのしませることではなくて、心をみがく事にあるということに、やっと気づかせていただきました。」
お釈迦様は、うれしそうにやさしくわらいながら、おっしゃいました。
「よく、気がついてよかったね。心をみがくとは、仏様の教にしたがうことだよ。教をよくきいて、仏様の心で、国をおさめて、みんなをしあわせにしてあげるがよい。」
「はい、かならずそういたします。」
でぶでぶふとっていたころと、うってかわって、ひきしまった身体になっているパセーナデイ王は、目をかがやかせて、お釈迦様に手をあわせました。