我々に生活の目的は何かと聞かれたならば、現代人の殆どは『金と自由』を欲しがるものです。
すこし昔ならば『人生の歴史を、より一層光輝あるものにしたい』とか『大なる遣産を残したい』と言う、種々の希望的条件を答えた。
詮じ詰めると皆がお互に住みよい世の中を作って、人生の幸福と生活の安定とを求めている。
この希望を満足させたいために、様々な飲望が伴い、煩悩であるが故の苦悩が付き纏うのであります。
この欲望を満たし、この苦悩を除くために苦と楽との間をさまよっているのが人生なのである。
所が人間の欲望は間断なく次から次に生れて来るのであって、もし一を得れば更に二を望み、二を得れば三を求めてその止まる所がない。
科学文明はこの欲望に促されて進歩し発達しているのであるが、しかし我々の生活が個人的なものでなく共同の生活であることを忘却し、利己的な欲望の赴くままに放任して、そこに合理的な調和を怠つたならば、人々は皆極端な我利我利亡者となり、杜会の安寧ど秩序を妨げ、平和を乱して文化の向上もなければ芸術の進歩もなく、世は挙げて弱肉強食の世界となり、野獣の生活と何等選ぶ所がないであろう。
最近の人々は稍もすれば個人が根本なものであって、周囲の関係は第二義的に考え勝ちであるが、人間がこの世の中に生存するのには唯自分だけでは生活はできないのである。
必ず個人と周囲との密接な関係によって固く結ばれているのであって、自分と周囲との関係は前後的なものではなく、我々個人であると共に親子兄弟、親戚縁者、知人同僚、或は主人師匠と云った具合に社会一般の密接な関係につながった一連の下に生存しているのであって、衣食住一として周囲の関係の恩恵に浴さないものはないのである。
若し自分だけが杜会から完全に引き離されたと仮定して、その時の自分の生活を想像して見たならぱ、如何に周囲の恩恵に浴しているかが、よく判るであろう。
だから我々の幸福は自分一人の上に存在するのではなく、必ず自分と周囲との関係、即ち家庭より国家、全世界に至るまで、すべてが円満に融和したところに存在するのである。
そこで人と人との間に行われる人情の作用や、共栄互助の方法等を考察して、よりよき杜会を作るために孔子は仁を説き、キリストは愛を説き、釈迦仏は慈悲を説き、古釆多くの聖賢によって道徳的規範が盛んに提唱されたのである。
わが国では古くから報恩感謝の思想によって、先ず祖先崇拝の祭礼が行われ、それに義理人情が構り込まれて、漸次杜会的規範が定められて、国民の間に行われていたのであるが、仏教道徳が伝えられ、その円満にして普遍的な教理が、あだかも我が国民性にピツタリと融和して、大なる発達を見たのであった。
又一方儒教道徳が伝えられてその影響を多分に受けたが、儒教道徳は主従、親子、夫婦等の関係を身に備った達命とし、或は天から定められた命令として、この極限された見解のもとに人生を規律しようとする服従的のものであったから、封建的な武家政治には誠に都合のよい重宝なものとして、これまた御用学者によって盛んに提唱された。
このため個人の平等と自由と尊厳とが無視せられた傾向があったのであるが、今やそれは封建思想として葬られ、ここに仏教道徳の真価が再認識に至ったのである。
仏教道徳は最高の悟りを開いた佛陀の智慧によって、因果の法則や萬物の有りのままの相を徹底的に見極め、これに正しい見解を下して人間としての在り方を教へたものであって、先ず報恩謝徳の思想を基調とし、すべてのものを慈悲の中に包容して、あらゆる杜会的規範を律したものであつて、平和境の建設が目的であり、私共を良心的行動に導く生活上の最高指針である。
慈悲というのは、慈は父の愛情であってその正法正義の布教教化(折伏)を意味し、悲は母の愛情であって摂受を意味しているのであって、単なる博愛心にとどまらず、更に進んで他の苦を抜き楽を与へる、積極的行動の伴つた広大なあわれみの心である。
我々は勝って兜の諸を締めよと教えられて来たが、今となっては『負けて道義に花咲かす』ことによって、永遠の平和を得なければならない。
道徳を忘れた人間は野獣に劣る。
しかしながら我々の生活には道徳の範囲ではとうてい割り切れないものがある。
何故かといふと、私共の生活上、必要欠く事の出来ない要件を、利己的な欲望として無理に抑制することは不可能だからである。
生活のある限りそれに必要な欲求も亦必ず伴うものであるから、寧ろこれを平等に究極の所まで到達せしむるのが道理であって、これが合法的運用は各自の自覚にまたなければならない。
即ち欲望を悉く満足することが出来る境地にまで、お互いに人格的地位を昂める事が肝要である。
言い替へると、人生最高の幸福とは何かということを、徹底的に会得して、各自が共存共栄の実を挙げ相信、相愛の住みよい世の中を作る事である。
こうして初めて感謝と希望と安心とに満ちた、明朗な生活は開かれて行くのであって、これは道徳を更に深めた宗教の教理に基かなければ、到底求められないのである。
所が我々人間には欲望の外に更にまた種々の苦悩が常に付き纏って離れないのである。
この苦悩も実に執拗であって、これ又道徳では到底解決出来ないのである。
仏教では
肉体上の苦悩を
生苦。
老苦。
病苦。
死苦,
の四苦に大別し、次に精神的苦悩を
愛別離苦(愛する人々と生別し或は死別する苦しみ)
怨憎会苦(怨み僧レみを持つ者に会う苦しみ)
求不得苦(自分の欲求する物を得られない)
憂悲苦悩(憂い悲しみ苦しみ悩む)
の四苦に大別して、これを合せて八苦と称しているのであるが、この外に三毒七難といって思想的迷妄から来る。
瞋恚(自分の心に違うものを瞋りにくむ事)
貧欲(欲が深くてあきることを知らぬ事)
愚痴(理非に暗く言って甲斐なき事を嘆く事)
等のために自ら苦を招き、又外部から受ける種々の苦悩があり、実に苦悩の種類も多種多様であって、これまた次から次へと寸時も離れない。
この苦悩を適当に合理的に処理して、その束縛から解放されなければ、真に幸福な生活は望めないのである。
そこで我々はこの苦悩を如何にして除くか、このためにも心身の鍛錬を必要とするのであって、この目的に副う物は単なるあきらめではなく、真に精神の安息所となるものでなければならない。
それでは果たして我々の欲望を満たし、生活上の苦悩を除き、歓喜の生活に導くような教えがあるのであろうか。
それは最高の智慧に撤して宇宙観と人生観とを究明し、如何なる学説を以ても打ち砕くことの出来ない、確固不動の真理に基く完全な宗教以外にはないのである。