男は、町の外れにある古びた研究所の扉を叩いた。
「あの…『リセット・ウォッチ』を買いに来ました。」
中から出てきたのは、白衣を着た小柄な老人だった。
「予約はされていますか?」
「ええ、一年前に。」
リセット・ウォッチ。それは、人生でただ一度だけ、過去二十四時間を完全にリセットし、やり直せるという時計型の装置だ。使い道は様々。大きな失敗、取り返しのつかない失言、ロトの番号確認。価格は非常に高価だが、その価値は計り知れない。
老人は男を奥の部屋へ案内した。そこには、ガラスケースの中に光沢のあるシンプルな腕時計が置かれていた。
「これがリセット・ウォッチです。使用方法は簡単。失敗した、と思った瞬間に真ん中のボタンを押すだけ。時間は現在から二十四時間前に戻ります。」
男は唾を飲み込んだ。
「ただし、一つだけ条件があります。」老人は声を低くした。「時間を戻した時、『世界』は元に戻りますが、『あなた自身』の肉体と精神は、時計を動かした時点のままです。」
男はピンと来なかった。「どういう意味ですか?」
「例えば、あなたが使用直前に徹夜で働き、酷く疲弊していたとしましょう。時間を戻し、一日前に戻ったあなたの体は、徹夜明けの極度の疲労状態から再スタートするということです。」
男は考えた。少しの疲労は仕方がない。
「では、大きな怪我をしていたら?」
「もちろん、怪我もそのままです。二十四時間前の世界に、怪我をしたままのあなたが出現することになります。しかし、周囲の人間は誰もその怪我の原因を知りません。」
「それは…不便ですね。」
「ええ、非常に不便です。しかし、人生をやり直すコストです。」老人は微笑んだ。
男は承諾し、高額な代金を支払ってリセット・ウォッチを受け取った。
そして一週間後。男はついに時計を使った。株取引で全財産を失うという、致命的なミスを犯したのだ。
彼は震える手でボタンを押した。眩しい光と共に、世界が回転し、彼の目の前は二十四時間前の自室に戻った。
男はすぐにパソコンに駆け寄り、正確なタイミングで株を売り、破滅的な損失を回避した。
「やった!」
安堵した男は、ふと違和感を覚えた。
体が重い。
時計を押した直前、男は自分の愚かなミスに絶望し、激しい頭痛と嘔吐に苦しんでいた。その絶望感と、嘔吐寸前の胃の不快感が、二十四時間前の世界にそのまま持ち込まれていたのだ。
部屋は明るく、株価はまだ高かったが、彼の胃は波打ち、頭は鈍く痛み、そして心には「一度失敗した」という事実の重みだけが残っていた。誰も知らない、彼だけの絶望だ。
彼は成功した。だが、その成功を喜ぶには、彼の心と体はあまりにも疲れ果てていた。
そして、男は知った。
リセット・ウォッチが本当に時間を戻すのは、世界だけなのだ、と。