「全く、うるさいな」
男は耳元に装着された『感情フィルター』の出力を少し上げた。
感情フィルターは、ここ数年で爆発的に普及した小型デバイスだ。人の発する音声から、怒り、悲しみ、苛立ちといったネガティブな**「感情のトーン」だけをAIが識別し、それを無色透明の「ただの情報」として脳に届ける。その結果、フィルター越しに聞く人の声は、常に平坦で客観的になる。
職場では、これが大好評だった。上司のヒステリックな叱責も、フィルターを通せば「企画の論理的破綻に関する指摘」という冷静なデータになる。同僚の陰口も、ただの「意見交換」に過ぎない。
男はフィルターのおかげで、精神的なストレスから完全に解放されていた。
ある日の夕方、男がフィルターを装着したまま帰宅すると、玄関で妻が立っていた。
「あなた、今日は早かったのね」
妻の声は、フィルターを通してもいつも通り平坦だ。男は無感動に答えた。「ああ、今日は定時で。夕食は?」
「できてるわ。でも、ちょっと話があるの」
妻は食卓についた。男も向かいに座る。妻は落ち着いた声で、事実だけを伝達した。
「私、来月から実家に戻ることにしたの。離婚したいわ。」
男は驚かなかった。フィルターを通じた声は、ただの事務連絡だったからだ。
「そうか。理由は?」
「理由?ええと、あなたの無関心さ、かしら」
「無関心、ですか。論理的な裏付けはある?」
妻の表情が、一瞬だけ歪んだように見えたが、その声は全く乱れなかった。フィルターが感情を完璧に除去しているからだ。
「あなたの声は、私を罵倒している時も、愛していると言った時も、いつも同じなの。機械みたい。私はもう、あなたの隣にいる意味が見つからないのよ。」
男は頷いた。
「理解した。では、離婚届にサインすればいいんだね。」
男は、自分の対応が非常に合理的で、感情的衝突を避けられていることに満足していた。別れ話ですら、ストレスフリーだ。素晴らしい発明だ、と改めて思った。
妻は立ち上がり、静かに部屋を出ていった。
男は一人、食卓に残された。そして、テーブルの上に置かれていた、彼の分のスープを一口飲んだ。
塩辛い。
いつもは薄味を好む妻が作るスープなのに、今日に限ってひどく塩辛い。
男は、初めてフィルターを外し、そのスープをもう一口飲んだ。
やはり、ひどく塩辛い。
その時、男は悟った。
世界には、感情を伝えるために、声のトーンや言葉ではなく、味を使う人間もいるのだ、と。
そして、フィルターが除去できるのは、音波に乗った感情だけなのだ、と。
男は、自分の合理性が完璧ではなかったことに、初めて苛立ちを感じた。
しかし、その苛立ちは、すぐに彼の頭の中で無害な「データ」に変換された。
彼は再びフィルターを装着した。そして、塩辛いスープを最後まで飲み干した。