この絵を見ていると、また違う想像にも駆り立てられます。


この円錐と円錐がくっついた形・・・


「砂時計」に見えませんか?


とすると、砂時計の砂の移動する場所、ガラスがちょうど究極に細くなる場所、
そこに「私」がいる、ということでしょうか。


砂時計は、上のガラスのふくらみにある砂が下のふくらみに落ちてしまう時間を、タイマー式に計るものですよね。


図にあてはめてみると、未来の時空にある砂が過去の時空に落ちていくってことですか?


未来から過去に流れる時間・・・


最近、苫別地英人さんの本、『努力はいらない!「夢」実現脳の作り方』を読みました。
派手な装丁に、むやみに大きい題字。


それに「努力はいらない」って、ウサン臭さ全開。


「なんだかなあ」


と思っていたのですが、出会えて本当によかったです。


苫別地さんも


「時間は未来から現在、過去へ向かって流れているのです。」


「あなたが今いる地点が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんやってきては、過去へと消えていっているのです。」


と書いていらっしゃいます。


(苫別地さんが、なぜ時間が未来から過去へ流れると考えているのかは、また、別の機会にでも書こうと思います。)


でも、一番心引かれたのは、「私」という存在の定義です。


苫別地さんは、


「私という存在を決めているものは、結局のところ、どれも「他者との関係」にまつわる情報」である。「つまり、自我というのは、すべて他者との関係によって定義される」


と書かれています。


そしてこの後です、しばたまがガーーーンときたのが。


「ここで重要なのは、「関係」というのは点と点とを結ぶ線につけた名称であり、点そのものには面積も体積もないということです。私という自我は、(・・・中略・・・)宇宙空間の座標軸の中の点が描くネットワークを指す、ということなんです。でも、その実体はといえば、中心は点ゆえに「ない」わけです。」


!!!

前のブログから、かなりサボっちゃいました。


「しかし、わからないながらも、ひとつの図解にこころひかれました。」

で、終わっていたようですね。


その図解なんですが、余計なところを省いて、新たに描きなおしてみました。
(実際の図解は本のP.75にあります)



神秘家と狂詩人-描いてみた図


この図を見ると、

「「私」は、膨大な過去と深遠な未来とにはさまれた「点」なんだなー」


と、しみじみ思います。

「点」にすぎない私。


でも、

途方もないものの集約点。
途方もないものへの拡大点。

宇宙のど真ん中、何もない空隙に放り出された感じがします。

そして、


「この点に私がいる。私の背中には全宇宙の過去があり、私の目の前には全宇宙の未来がある。」

と、想像してみるのです。


いつも見ている風景が、一変します。

「そうか、私は世界の真ん中だったんだ」


って、元気になります。

小学生の時、直線という概念を習いますよね。


その時先生が、「線は無数の点の集まり」と言っていたような気がします。

「無数の点が間断なくが過去から未来につながると、「歴史」になるのかな」


なんて、考えます。

日々を生きる、生ききることが歴史の創造なのだと・・・大げさですかね?



池田晶子氏が

『事象そのものへ!』

のなかで、

『ホーキング、宇宙を語る』

のおもしろい考えを紹介しています。

現在宇宙は膨張期にあるのですが、

収縮期にはいると時間は未来から過去へ流れだします。

つまり「生まれる前に死に、次第に若くなってゆく」というのです。


この考察を前にして、池田氏は


「生まれる前に死ぬ」という事態については、

想像力のどのような屈伸、反転、跳躍の試みをもってしても、

私たちは実感することができない、「わからない」。


と説明しています。


上記のことから宇宙に流れる「時間」の概念に興味のあったしばたま、

『時間旅行者のための基礎知識』

という本を読んでみました。


神秘家と狂詩人



第1章は

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
「コンタクト」
「スター・トレック」

といった有名な映画やドラマ、SF小説を例にあげながら

「宇宙物理学における時間旅行の概念を概観する」

といった感じで楽しかったのですが・・・


その後、

特殊相対性理論

ワームホール

宇宙ひも

等等等ーーーーーっ

と、専門用語のオンパレード。

途中で計算式が出てきたので、

完全にブラック・アウトしてしまいました。

理系の才ゼロゼロ人のしばたまにとっては、

結構、キツかったです。


しかし、わからないながらも、ひとつの図解にこころひかれました。