あとひとり
どんなに願ってもどんなに科学的にカタチができても魂だけが宿らなかった。
3回ほど繰り返しその度に処置をした。
痛くも哀しくもなく不思議な思い出でしかない。
その時、その現実から逃げ出したかったのかもしれない。
そんなところにふさわしい魂は与えられなかったのか。
そのとき欲しかったのは一人の命ではなく「肝っ玉」
大地に深く根ざした樹木のような。
新米ママはいつも簡単にポッキリ折れていたから。
20代、30代肝っ玉母さんのイメージでどっしり太ろう!と思ったことさえある。
結果腰を痛めただけだ。
カタチではないのだろう。
あれから20年。
今、肝っ玉を手にしているように思う。
元夫とセックスをし、欲しかった命のようで、セックスに意味があったのかもしれない。
でもそのときは精子と卵子がくっつくことしか考えていなかった。
それは満たされない弱い私を満たしてくれる精子だった。
今、セックスをし、子宮、丹田への意識は、ごく自然に肝っ玉が座っていくのだろう。
今は、精子ではない。
今は彼との交流。
決して混じり合うことはない交流。
どこまでも絡まり合い高めていく。
どこまでもどこまでも一つになろうとする。
そこには私が揺れ動いてはくちゃくちゃに絡まってしまう。
一つの肝っ玉を据えてどこまでもどこまでも一つへ。
彼からもらう「無限プレゼント」
肝っ玉は私も彼へ「無限のプレゼント」を渡せる。
子が肝っ玉を育てると思っていたけれど、パートナーシップこそ肝っ玉を育ててくれるように思う。
子育ては一方的に育てるという側面もあるけれど、パートナーシップは相互作用でしかない。