「コーダ あいのうた」がアカデミー賞受賞効果で再拡大公開されたので見に行った。

 

 

1月の初公開の時には行かなかったのだが、見ようと思っていた「ベルファスト」が、どうしても都合が合わず見れなかったことと、妻ののりこさんがぜひ見たいとのことだったので、ふたりで見に行ったのである。

 

非常に良くできた映画であると思った。

 

コーダ(=ろう者を両親に持つ子供、この映画では両親と兄がろう者)である女子高校生ルビー(エミリア・クラーク)の旅立ちを描いた映画であるが、聴者とろう者の間の壁、家族で唯一の聴者であることで家族の通訳の役割から離れられないヤングケアラー問題などを散りばめつつ、家族愛の物語として印象に残る秀作となっている。

 

聴者とろう者の壁として、を持ってきているのが上手い。

 

歌の才能を見いだされ、音楽大学受験を薦められるルビーに対し、ろう者の家族は、歌が上手いのかどうかも判断つきかね、音楽大学進学よりも、家族のために残ってほしいと思う(家業である漁師の仕事には手話のできるルビーが不可欠)。

 

障害を扱った作品は深刻になりがちであるが、この映画は深刻な部分を表に出さず、明るさを保っている。

 

とはいえ、そういった部分を全くなかったものとしているわけではない

 

ルビーが「発音が変だと笑われたことがある」という場面や、ろう者の兄が聴者の同業の漁師たちとパブに行っても会話がわからなくて馴染めない場面。観客としては、「いや、たぶん、もっと陰湿なイジメやあからさまな嫌悪にさらされることがあったのでは?」と推測できる(逆にこの映画では、そういうことを「察する」見方が必要と思う)。

 

あからさまに描写するのではなく、「そうじゃないか」と匂わす演出。これはちゃんと意識して作っていると思うそこが評価されたからこそのアカデミー賞受賞ではないか

 

前半では、ルビーがいなくなれば家業がこなせなくなるという実情を描いて、家族とルビーの葛藤を際立たせているのだが、父親が「決断」してからは、ルビーが大学の歌唱の実技試験に合格できるかという点が中心となり、家業の問題は触れられなくなる

 

しかし、ルビーがいなければ、家業に大きな影響が出ることになるということは、すでに提示されているので、ルビーの進学が家族にどういう影響があるか、観客は「察する」ことができる

 

あえて、家族の悩みに時間を費やすのではなく、家族とともに大学にチャレンジする方向に物語を進めていくのは、まさに観客の共感を呼ぶ王道の展開

 

ラスト、旅立つルビーと家族との別れの抱擁は、「応援してくれてくれてありがとう」という薄っぺらなものではなく、大いなる犠牲を払って送り出す家族とその犠牲を胸に旅立つ娘という、もっと深く切実な想いがこめられているのである。

 

こういった絶妙な演出は上手いと思うのだが、その副作用だとおもえるのは、主人公一家以外の登場人物の個性の薄さ・役割の薄さである。主人公たちと正面切って対立するような人物がいないため、記憶に残る脇役がいない

 

ルビーの才能を見い出す音楽教師は、なかなかユニークなキャラではあるが、ルビーに大きな影響を与えたとも言い難く、中途半端な印象ルビーと両想いになるマイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)もロマンスのお相手以上の役割はあまりない(ただし、ロマンス要素はこの映画の大きな魅力ではある)。

 

そのかわり、家族のキャラは際立っており、特に父親役のトロイ・コッツァーと母親役のマーリー・マトリンの演技はお見事としか言いようがない。ちょっと下品な描写もあるが、それもキャラの魅力になっている。

 

もっと人間同士の魂のぶつかり合いが見たかった、という人もいるだろう(かくいうわたしもその一人ではある)。

 

しかし、この映画はそういう目的で作られているのではなく、多くの人に共感して見てほしいという意図がある。多くの人が見れば、コーダの問題やろう者への理解が深まるのであり、この映画はまさにその使命を果たしているといえるのではないだろうか