《澄んだ青い空、星々が美しいのは》
星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているから…
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)
等間隔に続いている七夕飾りの僅かな風に揺れるひとつの吹き流しをくぐり抜け、眩い陽に溶けてしまいそうな澄んだ青い空に、ぼくは、あっと声をあげました。
すると、白にむらさき色の花模様の浴衣姿のナツコちゃんが、なに?と不思議そうに微笑みます。
ぼくが、軽く頭を横に振りながらなんでもない、と答えると、今度はナツコちゃんが、あっと声をあげて七夕飾りの隙間から覗く空を見上げました。
澄んだ青い空ね
ゆうちゃんも気づいたのね
………
ナツコちゃんは、急に握っていた手に力を込めたまま強引に大きく腕を振り始め、ぼくは腕が引っ張られてびっくりしましたが、ナツコちゃんは見たこともないような楽しげな笑顔のあとに、しっかりとした口調で続けました。
ゆうちゃん
いちばんたいせつなことは、目に見えないんだよ
でもゆうちゃんにはそれが見えるみたい
………
おとなになってもそのままでいてね
………
七夕まつりの雑踏の中でも、その言葉は消えることなくぼくの心に響きました。
ぼくには、まだ大人になるのがどういうことなのかわかりませんでしたが、ナツコちゃんの二重まぶたの美しいひとみと同じような澄んだ青い空を、大人になっても忘れないでいようと思いました。
いちばんたいせつなことは、目に見えない
すると、その七夕飾りの隙間から覗く小さなスペースの澄んだ青い空に、不思議とまたあの顔が浮かんで来ました。
吹き流しが風に揺れて、ぼくの頬をくすぐりながら…
「小さな丸い顔に大きなひとみ」
のきみが…
やあ
こんにちは
今日は仙台七夕まつりなんだ
………
開催中に200万人の観光客が訪れる仙台七夕まつりはの混雑は、たいへんなものでした。
ナツコちゃんは人に押されても手が離れないように、ときおり痛くなるほど強く握って来ます。
ぼくとナツコちゃんは、荒れ狂う嵐の海で漂浪する小船のように、あるいはライオンの群れの中を怯えて彷徨う子羊のように、混み合う雑踏の中を歩きました。
ぼくは、ナツコちゃんを包んでいる繊細なオブラートが、人混みの中で他人に触れるたびに傷ついてしまうのを感じ、美しいナツコちゃんが傷つき穢されてしまうのをおそれ、たまらず大きな声をあげました。
ナツコちゃん
お腹が空いた
三越のレストランでお昼にしよう
ナツコちゃんもお腹が空いたでしょう
早くお昼にしよう
………
ナツコちゃんも、ぼくの気持ちを察したように苦笑しながら頷きました。
そして、ナツコちゃんのように繊細なオブラートで包まれた子羊が、野蛮で貪欲に蠢く輩が犇めつくされた野原に放たれた時、逃げることも避けることも叶わず血に塗れたほふられた子羊となってしまうことを、子どものぼくには、まだまだ知る由もありませんでしたが…
ぼくとナツコちゃんは、容赦のない夏の日差しに溺れた人混みの中を、七夕飾りが並ぶ一番町通りに面した正面玄関から、お座りをしたライオンの銅像に気を取られながら、仙台三越に入りました。
明るく煌く華やいだ店内も、多くの観光客で混雑していましたが、7階のレストランへ手を繋いでエスカレーターを昇っていると、すぐ背後に立っていた小綺麗な老婦人から、あら、珍しいわねぇ、手を繋いで仲の良い兄弟だこと、と声をかけられました。
ナツコちゃんはにっこり微笑んで振り向き、老婦人へお礼を述べましたした。
ありがとうございます
弟は目を離すとどこに行ってしまうかわからないものですから、しっかり手を繋いでいないとダメなんです
………
小綺麗な老婦人は、俯いたぼくに目を向けながら上品に声をあげて笑いました。
7階のレストランの手前にあるイベントスペースでは、七夕まつり企画として特別にピアノのミニコンサートが始まるところでした。
照明が当てられた小さなステージの上には黒いグランドピアノが置かれ、手前のスペースに整然と並べられたパイプ椅子には、すでに十数人の観客が座っていました。
イベントの進行役らしい30代ぐらいの豊かな髪をアップさせ浴衣姿の女性スタッフが曲目を紹介し、やや髪の長い中年の男性ピアニストが最初の演奏を始めるところでした。
ナツコちゃんが多少興味を持ったらしく、ちょっとだけ聴いて行きましょう、と誘うので、ふたりで最後列のパイプ椅子に並んで腰かけました。
すると、すぐにイベントの若い女性スタッフが、にこやかに笑みを浮かべ曲目とピアニストの名前の記載された1枚のパンフレットを持って来てくれました。
すかさずナツコちゃんは、ショートカットの前髪をかき上げながらパンフレットに目を通し、ベートーヴェンのピアノソナタが最初の演目よ、と少し得意げに何もわからないぼくに教えてくれました。
ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章!
とてもいい曲だからこの曲だけ聴きましょう
………
やや髪の長い中年の男性ピアニストは、身体を左右に少し揺らしながら細長い指を華麗に踊らせ始めました。
🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵
🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵
🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵
🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵🎵
………
ナツコちゃんが小声で囁きました。
この曲は、ベートーヴェンが貧しい人々の運命を変えたいと願って捧げた曲なのよ
………
そしてやや髪の長い中年の男性ピアニストの奏でる音色は、まるで見慣れたビル群が朝陽に反射して、さまざまな方向へ光が派生し、その光から飛び出した小鳥たちのさえずりのように澄んでいました…
ナツコちゃんが、二重まぶたの澄んだひとみをやや潤ませながら、小さな声でさらに囁きました。
星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているから…
いちばんたいせつなことは、目に見えない…
